ある日、使徒パウロはコリントの信徒たちに手紙を書き送りました。その手紙の中には、神の御心について深い洞察が記されていました。パウロは、彼らが直面している困難や疑問に対して、神の約束と希望について語り始めました。
「兄弟たちよ、私たちがこの地上の幕屋に住んでいる間、私たちは天にある永遠の住まいを切に望んでいます。なぜなら、この地上の体は一時的なものであり、やがて朽ち果てるからです。しかし、神は私たちに、朽ちることのない体を与えてくださることを約束してくださいました。それは、私たちが死を通してではなく、いのちを通して神と共にいるためです。」
パウロは、この地上の生活がどれほど儚いものであるかを強調しました。彼は、この体が「幕屋」に例えられることを説明しました。幕屋は、一時的な住まいであり、いつかは取り壊される運命にあります。しかし、神が備えてくださる住まいは、永遠に続くものであり、天にある栄光の体です。
「私たちはこの幕屋の中でうめき、天からの住まいを着たいと切に願っています。もし、この幕屋を脱ぐことができれば、私たちは新しい体を着ることができるでしょう。神は私たちをこのために造り、聖霊を保証として与えてくださったのです。」
パウロは、この地上の生活が苦難に満ちていることを認めましたが、それでも彼は希望を持ち続けました。なぜなら、彼はこの苦難が一時的なものであり、やがて来る栄光に比べれば取るに足らないものだと信じていたからです。彼は、信徒たちにこの希望を抱き続けるように励ましました。
「ですから、私たちはいつも勇気を持っています。たとえこの体が衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされています。なぜなら、この一時の軽い苦しみは、私たちにとって永遠の重い栄光をもたらすからです。私たちは見えるものに目を留めるのではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。」
パウロは、信徒たちにこの世の価値観に縛られることなく、神の国の価値観に目を向けるように勧めました。彼は、この地上の富や地位がどれほど儚いものであるかを指摘し、代わりに神の御国における栄光を追求するようにと呼びかけました。
「もし、私たちがこの地上の体に住んでいる間、主から離れているように見えるとしても、私たちは主と共にいることを知っています。なぜなら、私たちは信仰によって歩んでおり、目に見えるものによってではなく、信仰によって歩んでいるからです。ですから、私たちはいつも勇気を持ち、この体を離れて主と共に住むことを望んでいます。」
パウロは、信徒たちにこの世の生活に執着するのではなく、むしろ主と共にいることを切に願うようにと呼びかけました。彼は、この地上の生活がどれほど短く、儚いものであるかを繰り返し強調し、信徒たちに永遠の命に目を向けるように促しました。
「ですから、私たちはこの地上の生活を真剣に生きることを求めます。なぜなら、私たちは皆、キリストのさばきの座の前に立たなければならないからです。それぞれが、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて報いを受けるのです。」
パウロは、信徒たちにこの地上の生活が神の御前での審判に直結していることを思い起こさせました。彼は、彼らが善い行いをし、神の御心に従って生きるように励ましました。なぜなら、彼らが行ったすべてのことは、やがて神の御前で明らかにされるからです。
「ですから、私たちはキリストの愛に駆り立てられています。なぜなら、私たちはこう考えているからです。もし一人の方がすべての人のために死なれたのであれば、すべての人はその方のために死んだのです。そして、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている者がもはや自分自身のために生きるのではなく、彼らのために死んでよみがえられた方のために生きるためです。」
パウロは、キリストの愛がどれほど深く、広く、高いものであるかを強調しました。彼は、キリストがすべての人のために死なれたことによって、私たちがもはや自分自身のために生きるのではなく、キリストのために生きるように召されていることを語りました。この愛こそが、信徒たちの生活の中心であり、彼らを駆り立てる力でした。
「ですから、私たちはもはやだれをも肉によって知ろうとはしません。たとえ私たちがかつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのように知ってはいません。もし、だれかがキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました。」
パウロは、キリストにある者が新しく造られた者であることを宣言しました。彼は、古い生活が過ぎ去り、すべてが新しくなったことを強調しました。この新しい命は、キリストの死と復活によって可能となったものであり、信徒たちはこの命に生きるように召されていました。
「そして、これらのことはすべて神から出ているのです。神は、キリストを通して私たちをご自分と和解させ、また私たちに和解の務めをお与えになりました。つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪を彼らに負わせることはなさらなかったのです。そして、私たちに和解のことばを委ねてくださいました。」
パウロは、神がキリストを通して私たちと和解してくださったことを感謝しました。彼は、この和解が神の深い愛と恵みの現れであることを語り、信徒たちにこの和解の務めを果たすようにと呼びかけました。彼らは、この世に和解のメッセージを伝えるために選ばれた者たちでした。
「ですから、私たちはキリストの使者なのです。神が私たちを通して勧めておられるようです。私たちはキリストに代わってお願いします。神と和解しなさい。」
パウロは、信徒たちがキリストの使者としてこの世に遣わされていることを思い起こさせました。彼は、彼らが神の御心を伝え、人々を神と和解させる務めを担っていることを強調しました。この務めは、彼らが受けた恵みに対する応答であり、神の愛をこの世に示すための使命でした。
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがその方にあって神の義となるためです。」
パウロは、キリストが私たちの罪のために犠牲となられたことを感謝しました。彼は、この犠牲によって私たちが神の義とされることを語り、信徒たちにこの恵みを深く覚えるようにと呼びかけました。この恵みこそが、彼らの信仰の基盤であり、彼らを支える力でした。
こうして、パウロはコリントの信徒たちに、神の深い愛と恵みについて語り、彼らがこの世にあってどのように生きるべきかを教えました。彼は、彼らがキリストの使者としてこの世に遣わされ、神の和解のメッセージを伝える務めを担っていることを思い起こさせました。そして、彼らがこの務めを果たすことによって、神の御国がこの地に現されることを願いました。