聖書

「律法から解放へ:アレクサンドロスの信仰の旅」

**ローマ人への手紙7章に基づく物語**

ある日のこと、エペソの町に住むアレクサンドロスという名のユダヤ人がいた。彼は生まれながらのファリサイ派の一員で、モーセの律法を細部まで守ることに誇りを持っていた。幼い頃から両親に教えられ、十戒を暗唱し、安息日には一切の労働を避け、食物の規定にも厳格に従っていた。彼の心には、「律法を守る者が神に義と認められる」という確信があった。

しかし、ある時、彼はパウロという使徒が町で語っているという噂を聞いた。パウロは「人は律法の行いによらず、信仰によって義とされる」と説いていた。アレクサンドロスは憤った。「そんなことがあってたまるか!律法こそが神の御心ではないか!」と。彼はパウロの話を聞きに行き、激しく議論を挑んだ。

パウロは静かに答えた。「兄弟よ、律法は確かに聖なるものです。しかし、律法は罪を示す鏡のようなものであって、罪を取り除く力はありません。」アレクサンドロスは首を振った。「私は律法を守っている。それで十分だ!」

しかし、その夜、アレクサンドロスは自らの心と向き合うことになった。彼は確かに律法を守っていたが、心の中には怒りや妬み、貪欲が渦巻いていた。安息日に病人がいても、「労働してはならない」という律法を優先し、助けの手を差し伸べなかったことがあった。また、貧しい者を見て、内心では軽蔑していた。律法の文字は守れても、心は清くならなかった。

「私はいったい何をしているのだろう……」彼は床にひざまずき、苦悩に満ちた祈りをささげた。「私は善を願っているのに、悪を行ってしまう。私の内には、神の律法を喜ぶ心と、罪に引きずられる肉の性質が戦っている。私はなんと惨めな人間なのか!」

その時、彼はパウロの言葉を思い出した。

**「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私のうちにはもう一つの法則があって、それが私の心の法則と戦い、私をとりこにしている罪の法則の中に連れて行くのを見る。私は、なんという惨めな人間なのだろう。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるだろうか。」(ローマ7:22-24)**

アレクサンドロスは涙を流した。彼は今、自分がどれほど罪深い存在であるかを悟った。律法は彼に罪を示したが、救いを与えることはできなかった。

そして、ふと、パウロの言葉が心に響いた。

**「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25)**

彼ははっとした。キリストこそが、彼を罪の縄目から解放してくださる方なのだ。律法は罪を示すが、キリストは罪を赦し、新たないのちを与えてくださる。

翌日、アレクサンドロスは再びパウロのもとを訪れ、静かに語った。「私は悟りました。律法は私に罪を示しましたが、救いはキリストのうちにあるのです。」

パウロは微笑み、彼の肩に手を置いた。「兄弟よ、あなたは今、真の自由を見出したのです。キリストは、律法が成し得なかったことを成し遂げ、私たちを罪と死から救い出してくださったのです。」

こうして、アレクサンドロスは、律法の行いではなく、キリストへの信仰によって生きる道を歩み始めた。彼の内なる戦いは終わったわけではなかったが、もはや一人で戦う必要はなかった。キリストが共にいてくださり、彼を罪の支配から解放してくださったからである。

そして、彼はこう宣言するようになった。

**「だから、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)**

こうして、アレクサンドロスは、律法の奴隷ではなく、キリストの自由の中を歩む者となったのである。

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