**創世記32章:ヤコブの帰還と神との格闘**
夜明け前、ヤボク川のほとりは深い霧に包まれていた。冷たい風が葦を揺らし、水の流れる音だけが静寂を破っていた。ヤコブは一族を率いてこの地にたどり着き、兄エサウとの再会を前に、心は不安で満ちていた。二十年の時を経て、かつて兄を欺き、祝福を奪った罪の記憶がよみがえり、彼の胸を締めつけた。
「もしエサウが攻めてきたら……」
ヤコブは額に汗をにじませながら、配下の者たちに指示を与えた。まず、使者をエサウのもとに遣わし、穏やかな言葉で近づき方を探らせた。しかし、返ってきた報告は恐るべきものだった。
「エサウ様は四百人の兵を率いて、こちらに向かっておられます。」
ヤコブの顔から血の気が引いた。彼はすぐに行動を起こし、所有する家畜や財産を二つの組に分け、戦いで一方が滅んでも、もう一方が生き残れるようにした。そして、神に必死に祈った。
「父祖の神、主よ。あなたは私に『故郷に帰れ。私はあなたを幸せにする』とおっしゃいました。私はあなたの慈しみに値しない者です。しかし、どうか兄エサウの手から救ってください。私は彼が恐ろしいのです……」
その夜、ヤコブは家族を川の向こうに渡らせ、ひとりだけ残った。月明かりが川面を銀色に照らす中、彼は孤独と不安に打ちひしがれていた。
すると突然、暗闇から一人の者が現れ、ヤコブに襲いかかった。彼は思わず身構え、見知らぬ者と激しい格闘を始めた。二人は土煙を上げながら組み合い、息も絶え絶えになるまで戦った。相手の力は尋常ではなく、ヤコブは全身に痛みを感じながらも、必死に抵抗した。
夜が白み始めた頃、相手はヤコブの腿の関節に触れ、それを脱臼させた。激痛が走り、ヤコブは足を引きずりながらも、相手を決して放さなかった。
「私を去らせよ。夜が明けるから。」
「いいえ、祝福してくださるまで離しません!」
ヤコブの必死の叫びに、相手は静かに尋ねた。
「あなたの名は何というのか。」
「ヤコブです。」
すると、その者は言った。
「あなたの名はもうヤコブではなく、『イスラエル』(神と戦う者)となる。あなたは神と人とに戦って勝ったからだ。」
ヤコブは震える声で尋ねた。
「どうか、あなたのお名前を教えてください。」
しかし、相手は答えず、代わりに彼を祝福した。そして、ヤコブは悟った。
「私は神と顔を合わせたのだ。それでも、私の命は救われた。」
彼はその場所を「ペヌエル」(神の顔)と名付けた。腿を痛めながらも、ヤコブは日の光を浴び、新たな決意を胸にエサウのもとへと向かった。神との格闘を通して、彼はもはや「奪う者」ではなく、「祝福される者」へと変えられていた。
こうして、ヤコブは真の信仰の道を歩み始めたのである。