**エゼキエル書10章:神の栄光の顕現と燃える炭火**
預言者エゼキエルは、ケバル川の畔で捕囚の民の中に座していた。その日、彼の魂は深い幻に引き込まれ、再び天の扉が開かれた。以前に見たあの驚くべき神の御座の幻が、今また彼の前に現れたのである。
空は深い藍色に輝き、神秘的な風が彼の周りを渦巻いた。突然、遠くから雷鳴のような轟きが聞こえ、大地が微かに震えた。エゼキエルが目を上げると、見よ、かのケルビムの姿が現れた。彼らの翼の音は、全能なる神の御声のようであり、多くの水の流れるようであった。
ケルビムの傍らには、輝くサファイアのような御座が設けられ、その上には神の栄光が燦然と輝いていた。その姿は燃える炎のようであり、また煌めく金属のようであった。エゼキエルはその栄光を見て、顔を伏せた。あまりにも聖く、圧倒的な光景であったからだ。
すると、御座の上から声が響いた。「人の子よ、見よ。」エゼキエルが再び目を上げると、ケルビムの間で何かが動いているのが見えた。それは人の手のような形をしたものが、燃える炭火を取る瞬間であった。その炭火は、神の臨在の純粋な聖さを象徴していた。炎は赤く燃え上がり、しかし消えることはなかった。神の怒りと清めの業が、ここに現れようとしていた。
その時、ケルビムの翼の下にある車輪が動き出した。エゼキエルが以前に見たあの驚くべき車輪である。車輪は緑柱石のように輝き、一つ一つの輪の中にもう一つの輪が交差していた。車輪は四方に進むことができ、回る時にはケルビムと共に動いた。車輪の輪縁には無数の目がちりばめられ、神の全知と全能を表していた。
「ケルビムの上にいます主の栄光が、神殿の敷居を離れ、車輪と共に立ち上がった。」エゼキエルはその言葉を心に刻んだ。神の栄光が移動するということは、何を意味するのか。それは、神の臨在がイスラエルの罪のために聖所から離れることを示していた。しかし、同時に、神は決してご自身の民を見捨てることはないという約束も含まれていた。
やがて、燃える炭火が祭司の手に渡された。これは、民の罪を清めるための象徴的な行為であった。神の聖さは、罪を焼き尽くすが、悔い改める者には清めと赦しをもたらす。エゼキエルはその厳かな光景に、神の正義と慈しみの両方を深く覚えた。
最後に、神の栄光はケルビムと共に神殿の東の門に留まった。これは、将来、神の栄光が再び戻ってくる希望を暗示していた。エゼキエルはこの幻を通して、神がどれほど聖なるお方であるか、また、民が悔い改めに立ち返ることをどれほど切に願っておられるかを悟ったのである。
こうして幻は終わり、エゼキエルは再びケバル川の畔に戻った。しかし、彼の心には神の言葉が深く刻まれ、これから語るべきメッセージが与えられた。神の栄光は移り行くかもしれないが、決して消えることはない。この確信を胸に、エゼキエルは捕囚の民の中へと歩み出たのである。