**自由を与えるための自制**
使徒パウロはコリントの街を歩きながら、胸に去来する思いに深く考え込んでいた。彼の目の前には、活気あふれる市場、神殿の前で商売に励む人々、そしてギリシャ哲学者たちの議論が飛び交う広場が広がっていた。しかし、彼の心はコリントの信徒たちに向けられていた。彼らの中には、彼の使徒としての権利を疑う者もいれば、福音の真実を曲解する者さえいた。
「確かに、私は他の使徒たちと同じように、食べたり飲んだりする権利がある。主も、福音を宣べ伝える者が福音によって生活することを定めておられる。」(Ⅰコリント9:4、14)
パウロは静かにうなずいた。彼はかつて、テント作りとして働きながら宣教を続けた日々を思い出した。夜遅くまで針と糸を手にし、翌朝は会堂で教えを説く——そんな生活を彼は選んだ。それは、誰にも負担をかけまいとする彼の決意からだった。
「しかし、私はこの権利を全く用いなかった。むしろ、何もかも耐え忍ぶのは、福音に少しでも妨げとならないためだ。」(Ⅰコリント9:12、15)
彼の心には、ある確かな信念があった。福音は無償で与えられるべきものであり、彼自身がその模範を示さねばならない。彼は自らを「すべての人に対してすべてとなった者」と呼んだ。ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法の下にある者には律法の下にある者のように、弱い者には弱い者のように——ただ、何としてでも幾人かを救うためだった。(Ⅰコリント9:19-22)
ある日、コリントの信徒たちの前で、パウロは力強く語り始めた。
「競技場で走る者たちは、皆、賞を得るために自己を制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を得るために走るのです。」(Ⅰコリント9:24-25)
彼の言葉は、まるで剣のように鋭く、聴衆の心に刺さった。彼は、自分自身を訓練し、欲望に打ち勝つことの重要性を説いた。なぜなら、彼が人々に伝えようとしたのは、単なる教えではなく、キリストに従う生き方そのものだったからだ。
「だから、私は自分の体を打ちたたいて従わせます。私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者となるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:27)
パウロの目には、揺るぎない決意が宿っていた。彼は権利を主張するよりも、むしろ自らを低くし、キリストのしもべとして仕える道を選んだ。それは、彼が真の自由——神の国における報い——を求めていたからに他ならなかった。
こうして、彼の言葉はコリントの信徒たちの心に深く根を下ろし、彼らは自分たちの信仰を再考するようになった。パウロが示したのは、権利を行使することではなく、愛をもって仕えることの尊さだった。そして、その背後には、神の国に向かってひたむきに走り続ける、一人の使徒の姿があった。