**羊の門と良い羊飼い**
ヨハネによる福音書10章に記されたイエスの教えは、エルサレムの神殿の美しい門の近くで語られた。秋の祭りの時期、都は巡礼者でにぎわい、黄金に輝く建造物の間を吹き渡る風には、香料とオリーブの木の香りが混ざっていた。人々はイエスの周りに集まり、彼の言葉に耳を傾けた。その目は慈愛に満ち、声は深い権威を帯びていた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」
イエスは身振り手振りを交えながら、人々がよく知る情景を描いた。羊飼いたちが夜になると、石で囲まれた羊の囲いに羊を導き、自らは門の前に横たわって番をする様子を。野獣や盗人から羊を守るため、羊飼いは文字通り「門」となる。彼は命をかけて羊を守るのだ。
「しかし、門から入る者は羊の牧者です。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞きます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」
イエスの言葉に、群衆の中の羊飼いたちは深くうなずいた。彼らは毎朝、自分の羊を呼び分ける。羊は飼い主の声を聞き分け、見知らぬ者の後には決してついていかない。
「羊は彼の声を知っているので、ほかの人には決してついて行きません。むしろ、その人から逃げ出します」
しかし、人々はこのたとえの意味を悟ることができなかった。彼らの目にはまだ、イエスが何を指しているのかが見えていなかった。
そこでイエスは再び語り始めた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな盗人で強盗です。羊は彼らに聞き従いませんでした」
その瞬間、空気が震えた。イエスはご自身を「門」だと宣言したのだ。彼を通らなければ、誰も救いに入ることはできない。彼だけが、羊を緑の牧草地と命の水へと導く方なのだ。
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」
彼の声は力強く、同時に温かく響いた。盗人は奪うために来る。しかし、イエスは与えるために来た。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」
そして、最も驚くべき宣言が続いた。
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」
群衆の中から息をのむ声が上がった。羊飼いが狼から羊を守るために命を投げ出す話は聞いたことがあったが、この男は自分がそのような犠牲を払うと言うのか?
「雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を捨てて逃げます。狼は羊を奪い、また散らします。彼は雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです」
イエスの目には、深い悲しみが浮かんでいた。彼は、偽りの指導者たちが民を欺き、散らすことを見通していた。しかし、彼は違った。
「わたしは良い牧者です。わたしは自分の羊を知っています。また、羊もわたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです」
その言葉は、彼と父なる神との深い交わりを示していた。彼はただの教師ではなく、神から遣わされた救い主だった。
そして最後に、彼は未来を指し示した。
「わたしはまた、ほかの羊を持っています。それらの羊も導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、一人の牧者となるのです」
異邦人もまた、神の民として招かれる。イエスの愛はユダヤ人だけに留まらず、全世界に及ぶのだ。
この言葉を聞いて、群衆は再び分裂した。ある者は「彼は悪霊に取りつかれて気が狂っている」と言い、他の者は「悪霊に取りつかれた者が、盲人の目を開けることができようか」と反論した。
しかし、イエスの言葉は揺るぎない真理だった。彼こそが羊の門であり、良い牧者。彼だけが、迷える魂を安息へと導く方なのだ。
(ヨハネによる福音書10章に基づく)