その日、ヨルダン川の東、荒れ地の縁に設けられた宿営で、火は低くくすぶり、夜の気配が砂の上を這っていた。老いたレビ人、エリアブは、集まってきた若い者たちの顔を、ゆらぐ炎の明かりでひとつひとつ確かめるように見つめた。彼らの目には、カナンの地への焦燥と、それにまつわる漠然とした恐れが混ざっている。四十年来の荒野の生活が、約束の地を「約束」以上のものにできずにいたのだ。
エリアブは深く息を吸い、喉の奥から、砂を噛むようなざらりとした声で語り始めた。
「お前たちが恐れを抱くのは無理もない。目の前の川幅も、向こう岸にそびえる城壁も、すべてがお前たちよりも大きく、重く見えるだろう。しかしな……。」
彼は言葉を切って、夜空の果てない闇を見上げた。星々が冷たくまたたいている。
「私の目の前で、海が逃げた日を思い出す。」
炎がぱちりとはぜる。若者たちの息づかいが少し止まった。
「あの日、私たちは葦の海の畔に立っていた。背後には、ファラオの戦車の地響きが聞こえ、鉄の車輪が岩を砕く音が、風に乗って届いていた。前には、水がどんよりと暗く横たわり、その向こうには何も見えなかった。絶望とは、あの水の色そのものだった。」
老人は自分の膝を、骨ばった指でぎゅっと掴んだ。
「そして、モーセが杖を上げた。風が吹き始めた。東風だ。鋭い、うなるような風が、一晩中、海の上を吠え続けた。私たちはただ、震えながら立ち尽くしていた。夜明け前の闇が一番深い時、何かが変わった。風の音ではない。水の音だ。うねりが引いていくような、巨大な何かが身を翻すような……音ではなかった。むしろ、音が消えていった。海が、二つに裂かれた。」
彼の声は、まるでその光景を再び目に焼き付けようとするかのように、力なく、しかし確かに続いた。
「水が壁のように、右と左にそそり立った。その間に現れた道は、乾いていた。泥さえもなかった。海底が、数百年ぶりに大気に晒され、ただ驚き、固く凍りついていた。私たちは、その道を、息を殺して歩き始めた。左右には、青黒い水の壁が、山よりも高く、静かにうずくまっていた。頂上では泡が渦巻き、白い馬のたてがみのように風に揺れていたが、一滴も私たちの上に落ちては来なかった。海は見た。そして、逃げたのだ。」
一人の若い戦士が、疑い深そうに口を開いた。「水が『見た』だと? 海に目があるというのか?」
エリアブはゆっくりとうなずいた。
「良い問いだ。そうだ、お前の言う通り、海には目などない。山にも、丘にも、目はない。だが、あの時、私たちと共にいた方は、目をお持ちだった。その方の御前で、大地そのものが、生き物のように震え、形を変えた。荒野の四十年来、私はそのことを考え続けてきた。葦の海だけでない。シナイに至った時、山は全山煙に包まれ、雷鳴のように震えた。岩山そのものが、神の御前にひれ伏さんとして、根底から揺さぶられたのだ。」
彼はさらに語りを進める。ヨルダン川の上流、遠い北の地でのことを。
「そして、私たちがもう一つの水、ヨルダン川を前にした時のことだ。それは豊水期で、岸を覆い尽くす勢いだった。しかし、契約の箱を担ぐ祭司たちの足が、川縁の水に触れた瞬間、上流で水が立ち上がった。見よ、遠くアドムの町の方で、水の壁ができていた。下流はすべて、塩海へと流れ落ち、私たちの前の川床は、カレブが昨日測ったように、瞬く間に乾ききった。川は見た……主の契約の箱を。そして、逃げたのだ。」
炎がまた、ぱちぱちと音を立てる。沈黙がしばし訪れた。遠くで、野犬の遠吠えが聞こえる。
「詩篇の歌い手は、こう詠う。『ユダは主の聖所、イスラエルは主の領土となった。海はこれを見て逃げ、ヨルダン川はうしろに退いた。山々は雄羊のように踊り、丘は子羊のように跳んだ。』」
エリアブの声に、初めて温かみが宿った。
「雄羊のように……子羊のように……。お前たちは羊を見たことがあるか? 飼い主の声を聞き、柵が開くと、躍り上がり、跳ね回るあの喜びようを。あの日、山々も丘も、飼い主である創造主の御前に、抑制できない畏敬の喜びに打ち震え、跳ねたのだ。岩だらけの荒れ地さえも、命を与えられ、主の御心の前では水のように柔らかくなる。」
彼は若者たちを、じっと見つめた。彼らの目の中の恐れが、少しばかり別のもの、驚きのようなものに変わっているのを見た。
「お前たちが恐れるカナンの城壁も、そびえる山々も、すべては主のものだ。主が紅海を退かせたその御手が、ヨルダン川をせき止めたその御声が、お前たちの前にある壁を、どうすることができないというのか。問題は、壁の高さではない。私たちが、あの海を見て逃げた方、岩に水を湧き出させた方を、今も見ているかどうかだ。」
老人は語り終え、再りん沈黙に戻った。火は低く燃え、彼の皺深い顔を橙色に照らしている。約束の地から吹いてくる夜風が、宿営の幔幕をそっと揺らした。その風には、もう戦車の地響きはなく、遠い海の潮の香りもない。ただ、乾いた砂と、まだ見ぬぶどうの房の、かすかな予感のようなものが混ざっている。
若者たちは、それぞれに、青黒い水の壁と、踊る山々を思い描きながら、自分の手のひらを開いたり握ったりしていた。物語は、単なる過去の記録ではなく、今、この川の畔で脈打つ約束であった。老人の言葉は、完璧な説教ではなかった。ところどころで間がもたれ、時には言い淀み、比喩も突飛に聞こえた。しかし、それゆえに、聞く者の皮膚の下に、荒野の砂のようにざらりと残った。それは、AIの生成する整い過ぎた律動ではなく、歳月に削られ、信仰に揉まれ、時には疑いに曇りながらも、燃え続けてきた一筋の火の、不規則なゆらめきそのものだった。




