聖書

アレクサンドロスと恵みの泉

その日、エルサレムは鉛色の空を背負っていた。アレクサンドロスは、舗装石の隙間から顔を出す雑草のように、この街に根を下ろして三十年近くになる異邦人だった。工房にはオリーブ材の匂いが染み付いており、彼は指先で感じる木目の荒さに、今日もまた何か満たされぬものを感じていた。隣人との些細な諍いが尾を引き、胸の奥に鈍い痛みが居座る。正しい生き方をしようとすればするほど、自分の内側から湧き上がってくる無力感。それは、干上がった井戸を懸命に掘るようなものだった。

工房の片隅で、彼は一枚の皺になったパピルスを広げた。ローマに住む友人が、知り合いの旅商人に託してくれたものだ。サウロ、今はパウロと呼ばれるその男の、信徒たちへの手紙の写しだった。アレクサンドロスはギリシャ語を読むことはできたが、最初の幾行かで目が止まった。

「…こうして、私たちは信仰によって義と認められたのだから、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

彼は口の中で言葉を繰り返した。「義と認められた」。彼にとって「義」とは、律法の細則を呼吸するように守る者たちが独占する、雲の上の言葉だった。自分はその階段の一番下にも立てていない。なのに、ここには「信仰によって」とある。彼の手には、昨日まで彫っていた律法の言葉を刻んだ小箱の破片が食い込んでいた。努力の跡であり、同時に敗北の証でもある。

数日後、アレクサンドロスはユダヤ人地区の縁で、パウロの言葉についてあるラビと話す機会を得た。老人は皺だらけの手で胡坐を組み、遠くを見るような目をした。

「アダムか…」老人が呟いた。「あの一人の男の不従順によって、罪がこの世に入り、死がすべての人に及んだ。誰もがその縄目の中にある。お前も、私もだ。」

彼の言葉には、諦念のような、しかしどこか温かい響きがあった。アレクサンドロスは、自分の中に脈打つ、言い知れぬ衝動や怒り、そして脆さが、はるか昔のたった一つの出来事と糸でつながっているのだと言われることに、不思議な安堵を覚えた。それは個人的な敗北感を、より大きな物語の中に溶解させるようだった。

その夜、アレクサンドロスは工房で一人、ランプの灯りを頼りにパピルスを読み進めた。パウロの筆致は、ここで劇的な転回を迎えていた。

「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、多くの人に満ちあふれるのです。」

彼は息を呑んだ。アダムとキリスト。不従順と従順。死と命。それが単なる対比ではない。パウロは「なおさら」と言っていた。罪の働きを認めた上で、恵みの働きはそれをはるかに超える、と。アレクサンドロスの頭の中に、長年占めていた構図が揺らぎ始めた。神との関係は、壊れた器物を接着剤で直すような、危うい修復作業ではないのかもしれない。そうではなく、全く新しい器物が、無償で、圧倒的な豊かさで与えられるということなのか。

それからの数週間、彼の内側で静かな変化が起こった。隣人へのわだかまりは消え去ったわけではない。自分自身の弱さがなくなったわけでもない。しかし、そのすべてを抱えたまま、彼はある「場所」に立っていることを感じ始めた。それは「義と認められた」という法的な宣告の場であり、同時に「神との平和を持っている」という、内側から染み出してくる温かな確信の場でもあった。

ある夕暮れ、彼はオリーブ山の斜面に座り、エルサレムの街並みを眺めていた。かつては、この景色も、自分を裁く神の視線にさらされているようにしか感じられなかった。今、彼は違う思いを抱いていた。ここに平和がある。嵐が去った後の、深く静かな湖のような平和。それは、自分の行いによって獲得したものではなく、ただ「与えられた」ものだった。パウロが「この希望は失望に終わることがありません」と書いていた意味が、皮膚感覚で理解できた。希望の根拠が、変わらぬキリストの愛、聖霊によって心に注がれた神の愛にあるなら、それは確かなのだ。

アレクサンドロスは工房に戻り、新しい小箱を作り始めた。今回は律法の言葉ではなく、一本の葡萄の蔓を、実をたわわに実らせた姿で彫り込んだ。それは、苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望を生むという、そのプロセスそのものの象徴だった。彼のノミの動きには、かつてのような必死の緊迫感はなかった。そこには、与えられた平和の中での、穏やかで確かな作業があった。彼はもはや、干上がった井戸を掘る者ではなかった。むしろ、既に溢れる泉の傍らに座り、その水音を聴きながら働く者となっていたのである。

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