ケンクレアの港は、朝もやに煙っていた。フェベは革製の手さげ袋をしっかりと握りしめ、舳先に立った。袋の中には、感触でわかるあの分厚いパピルスの巻物があった。ローマへの長い旅路の間、肌身離さず持ち続けてきたものだ。潮風が、彼女のヴェールを揺らし、頬に塩の味を残していく。船はゆっくりと埠頭を離れ始めた。振り返れば、コリントの町並みが次第に霞んでいく。彼女は胸の内で繰り返した。覚えていよう、パウロの言葉を。「かの聖徒たちにふさわしい仕方でもてなしてくれ」と。
旅は過酷だった。アドリア海を渡り、ブルンディシウムに着き、そこからはアッピア街道を北へ。ローマへと続くこの石畳の道は、帝国の動脈だった。商人の隊列、兵士の一団、奴隷の列に出会いながら、フェベは歩き続けた。夜は道沿いの宿屋に泊まる。安宿の雑魚寝の部屋で、蝋燭の灯りを頼りに、彼女は慎重に巻物を広げては目を通した。そこに記された名前の数々。プリスカ、アクラ、彼らは今、ローマのどこにいるのだろう。迫害を逃れ、また新たな教会を築いているのだろうか。
足は水脹れになり、背中の荷物は日に日に重く感じられた。ある夕暮れ、街道沿りの小さな泉で水を飲んでいると、ローマから来たという老商人と話し込んだ。老商人は、都の中にあるユダヤ人の居住区の様子を、ぶっきらぼうに語った。皇帝クラウディウスの勅令で追放された者たちが戻り始めていること、しかし緊張はまだ消えていないこと。「お前のような女が一人で都に行くのは危険だ」と彼は言った。フェベは礼を言い、黙って袋に手を伸ばした。中身の重みが、彼女に勇気を与えた。
ついに、ローマの城壁が視界に入った日。その威容に、ただならぬ緊張が走る。門を通り、喧騒に飲み込まれる。異国の言葉、香辛料の匂い、動物の臭気。彼女はまず、テヴェレ川沿いの地区を目指した。パウロが言っていた通り、プリスカとアクラは天幕造りの仕事場を構えているはずだった。
細い路地を何度も間違え、ようやく見つけた工房。中から槌の音が聞こえる。入り口で躊躇う彼女に、たくましい腕をした男が声をかけた。「何か用か?」
「アクラ様ですか?それともプリスカ様ですか?」 声が少し震えた。
男の表情が変わる。「お前は…?」
「私はフェベ。コリントから参りました。ケンクレアの教会の者です。パウロからの書簡を」
その名を聞くや、男は工房の中へと駆け込んだ。間もなく、ほこりっぽい作業服姿の、目尻に深い皺のある女が出てきた。その目は、一瞬にしてフェベの懐中の袋を見据えた。
「中へ。早く」
工房の奥の住居部分は質素だった。木の机、数脚の椅子、壁にはユダヤの詩篇が書かれた羊皮紙が一枚。プリスカは、フェベが取り出した巻物を、汚れた手で触ることさえためらうようにそっと受け取った。アクラが入口に立って見張る中、彼女はゆっくりと巻物を開いた。
「…我が姉妹フェベを…主にふさわしく…」
彼女がつぶやくその声は、詰まり、そして涙声になっていた。自分の名前が、こんな遠く離れた書簡の最初に記されていること。パウロが、この旅の危険を承知で、彼女を「保護者」と呼んでくれたこと。長い旅の疲れと、突然の安堵が一度に押し寄せ、フェベの目からも熱いものが溢れた。
「彼は…元気でしたか?」 アクラが振り返って聞いた。
「はい。ただ、いつも通りの激しい議論の後は、ずいぶんとお疲れの様子もありましたが」
三人は顔を見合わせ、思わず笑った。それから話は尽きなかった。パウロの様子、コリントの教会の近況、そしてローマの信徒たちのことで。プリスカは巻物をさらに広げ、次々と語り始めた。
「アンデロニコとユニア…ここに『私の同族で、ともに投獄された者たち』とあるだろう?あの二人は、本当にたくましかった。今はプリスカの集いに加わって、ギリシアから来た信徒たちに、旧約の預言を説いている」
「アンプリアス…ああ、彼はもう年だから、あまり外には出られない。でも、いつも私たちのため、そしてあなたのような旅人のために祈り続けている。この名前を見たら、きっと喜ぶよ」
名前の一つ一つが、プリスカの口から、血の通った人間として蘇っていく。激しく議論好きな「主にある労働者」マリヤ。何度も迫害に遭い、それでも「よくやってのけた」ルフスとその母。何もかも捨ててやってきた「主にある選ばれた人」ウルバノ。小心で、いつも会合の片付けだけをしていたが、それでも「よく勤めてくれた」トリパイナとトリフォサ…。
「この『ペルシス』という姉妹はね」プリスカの声が柔らかくなる。「彼女は奴隷だった。今も、あちらの大きな屋敷に仕えている。自由にはなれない。でも、彼女の祈りは…私たちの中で一番熱いと言っていい。この『主のために多く苦労した』という言葉は、パウロだからこそ書けたのだと思う」
日は暮れかけた。アクラが安い葡萄酒とパン、オリーブを並べた。共に食卓を囲み、プリスカは最後まで巻物を読んだ。勧め、警告、そして最後の荘厳な頌栄。工房の中に、深い静けさが流れた。
「私たちは、多くの者でいて、一つの体なのだ」
アクラが呟いた。
「しかも、遠く離れて」
フェベが答えると、プリスカが強くうなずいた。
「明日から、あなたを案内しよう。この名前の人々に、一人ずつ会いに。パウロの言葉を直接聞かせてあげてほしい。彼の筆跡が、彼の声が、この紙を通してよみがえる。それが、今、私たちに必要なのだから」
ろうそくの炎が揺れた。フェベは、旅の疲れで足が痛むのを感じた。同時に、この狭い工房の、ほこりっぽい空気が、なぜかコリントの集会場のそれと変わらない親しさで満ちていることにも気づいた。彼女は、革の袋をもう一度しっかりと抱きしめた。その中には、もう単なるパピルスではない、無数の魂の触れ合いそのものが収まっているのだと感じた。遠いコリントで、あの小柄で目だけが鋭い男が、苦労して一字一字刻んだ言葉が、今、ここローマの、ほこりと革の匂いの中で、新しい命を呼吸し始めた。彼女は、ゆっくりと目を閉じた。まだ会っていない多くの兄弟姉妹の顔が、暗闇の中で、次第にはっきりと浮かんでくるようだった。




