聖書

キリストの心、フィリピへ

その手紙が届いたのは、夕暮れ時だった。エパフロディトが、まだ疲れ切った顔をしながら、小さな巻物を差し出した。フィリピの家々から窓という窓に、オリーブオイルのランプの灯がゆらめき始める頃。手紙を広げる前に、彼はしばし黙って、ローマの獄中にいるパウロの顔を思い浮かべた。ひげは伸び、鎖で繋がれた手首の皮膚は擦り切れているだろう。それでも、あの目だけは変わらない。あの、深い谷底のような、それでいて何かを確信に満ちて見つめる目だ。

「キリスト・イエスにあって励ましがあるならば…」

読み始めてすぐ、彼の声は少し詰まった。集まってきた兄弟姉妹たちの息づかいが、部屋の空気を濃くする。パウロの言葉は、いつものように、鋭くそして優しく、彼らのただ中へと入り込んできた。勧め、愛の慰め、御霊の交わり、それらが単なる言葉ではなく、ここにいるそれぞれの胸の中に、確かな重みとして落ちてくる。そうだ、私たちは一つなのだ。ここフィリピで、ローマで、そして見えない大いなる結びつきの中で。

「何事も党派心や虚栄からするのでなく、謙遜をいだいて互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。」

読み進める声に、うつむく者もいた。つい先日の、あの些細な諍い。誰が指導的立場に立つか、そんな話で少しばかり熱くなった口論を、皆覚えていた。顔がほてる。パウロは見ていないはずなのに、まるでこの家の片隅に立っているかのようだ。そして、彼の言葉は、単なる倫理的な教えを超えて、ある方の姿へと読む者をいざなう。

「あなたがたの間では、そのような心になっていなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものである。」

部屋が静まり返る。ランプの炎が、壁に巨大な影をゆすぶる。エパフロディトは息を深く吸い、次の言葉に力を込めた。ここからが、パウロが伝えたいことの核心なのだ。彼は、言葉一つ一つを、噛みしめるように読み上げた。

「キリストは、神の御姿であられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして、僕の形をとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、」

天の栄光。言葉で言い表しようもないその輝き。無限の愛の交わり。その方が、それを手放された。いや、「手放す」という能動的な意志を持って、それを「固守すべき事とは思わず」。それは、あまりにも巨大な転換だった。聞いている者の中から、かすため息が漏れた。私たちが、些細な名誉や立場にしがみつこうとするその心は、いったい何なのか。

「自らを低くして、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられた。」

「十字架」。その言葉が部屋に落ちた時、一人の老婆がすすり泣いた。彼女の息子は、数年前、盗みの嫌疑でローマ兵に打ち据えられ、十字架に掛けられた。その無残で、恥辱に満ちた、苦痛に満ちた死。神の御子が、あの刑罰の道具の上で。それは理解を超えていた。理解を超えているからこそ、胸を打ち、膝を折らせる何かがあった。論理ではなく、その深淵な事実そのものが、部屋にいる全て者の魂を沈黙へと押し沈めた。

それからパウロの筆は躍る。神は彼を高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった。天上のもの、地上のもの、地の下のもの、すべてが、イエスの御名によってひざをかがめ、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と告白する。

「ですから、愛する人たち。あなたがたがいつも従ってきたように、私が一緒にいる時だけでなく、いない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成するために励みなさい。」

エパフロディトは顔を上げた。涙で曇った視界の向こうに、兄弟姉妹の顔があった。織物工のあの男の頑なな額、商人の女の鋭い目、奴隷出身の青年の不安げな肩の線。皆、違う。でも今、この瞬間、パウロの言葉を通して注がれた「同じ心」が、見えない糸で彼らを結んでいる。それは、自分を無にしたあの方の心だ。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現させるのは神であって、みこころのままになされるのである。」

そうだ。この思いさえ、自分たちから出たものではない。あの方の犠牲がなければ、このような謙遜など思いもよらなかった。神ご自身が、私たちの内で働いておられる。この確信が、疲れ果てて病み、死の淵をさまよった自分を、フィリピまで帰らせた力だった、とエパフロディトは思った。

パウロは続ける。つぶやくように、すべてを文面に記すように。テモテのこと。すぐにも彼を遣わすこと。エパフロディトのことを――兄弟であり、協力者であり、戦友であり、あなたがたの使者として、彼の病気が死に至るほどのものであったこと。彼の帰りを喜び迎えてほしいと。

手紙は静かに閉じられた。長い沈黙が流れた。外では、野良犬が遠吠えした。やがて、老婆がゆっくりと立ち上がった。そして、隣に座る、あの口論の相手だった男の手を、皺だらけの自分の両手で包んだ。何も言わなかった。言葉は要らない。彼女の目には、あの十字架の光景が焼き付いており、その前では、自分たちの驕りなど、ちりのように散るものだった。

その夜、家々に帰って行った人々の歩みは、来た時より少し遅く、確かだった。空には無数の星が輝き、その遥か彼方、言葉にならない栄光を捨てて来られた方が、今も、全てを見つめておられる。パウロの手紙は、一枚の羊皮紙に過ぎない。だが、その上に記された「キリストの心」は、この小さな町の、ごく普通の人々の間で、静かに、しかし確かに脈動し始めていた。それは、何か大々的な出来事ではない。隣人に譲る一片のパン、赦しの一言、驕りを捨てて膝を折る瞬間の、かすかな軋みのような音として。

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