聖書

残された安息への招き

その日も、工場の喧噪が骨の髄まで染み渡る晩だった。賢一は流れ作業のベルトの前で、ただ手を動かしていた。油の匂いと金属の軋む音。十年がそんな風に過ぎた。家路につく電車の窓に、自分が映る。何かを探しているような、それでいて何も期待していないような顔。幼い頃、祖母が通っていた小さな教会で聞いた「安息」という言葉が、ふと頭をよぎる。まるで遠い国のことばのようだった。

彼の生活に「休息」はなかった。休日は疲れを癒すための虚脱した時間で、むしろ月曜への憂いに満ちていた。心の奥底には、常にざらついた飢えのようなものがある。何かが足りない。何かがずれている。祖母が逝ってから、その感覚は色褪せた写真のように、しまい込まれていた。

ある雨の土曜日、彼はふらりと下町の古本屋へ足を運んだ。埃っぽい店内で、一冊の分厚い聖書が目に留まった。それは誰かが丁寧に使い込んだらしく、ところどころに褪せた鉛筆の書き込みがあった。手に取ると、自然にページが開いた。「ヘブライ人への手紙 4章」。彼は立ち読みを始めた。

> そこで、神の安息に入る約束がまだ残っているのに、あなたがたの中に、これに入れない者がいるかと思われるので、…

その一行で、彼の呼吸が浅くなった。約束。まだ残っている。まるで、ずっと閉じられていたと思っていた扉が、実は最初から堅く閉ざされていなかったと言われるような気分だった。書き込みは細く、読みづらい文字で記されていた。「カナンの地は、単なる土地ではない。神との関係そのものだ」。

その夜、彼はその聖書を買い求め、コーヒーを淹れて窓辺に座った。街の灯りが雨に滲む。彼は続きを読んだ。

筆者は「安息」を、天地創造の第七日にさかのぼって説明していた。神がご自身の働きを終え、安息したあの日。その安息は、決して過去の単なる事実ではないと書いてある。それは「今日」という時にまで響き渡る、開かれた可能性なのだ。読み進めるうち、賢一は自分が、かつてのイスラエルの民のように、不信仰と頑なな心で、その入り口に立ちすくんでいる者なのだと悟らされた。工場での日々、人間関係のもつれ、将来への漠然とした不安…それらはすべて、彼を「安息」から遠ざける荒れ野の放浪だった。

そして9節に至った。「こうして、神の民には、安息日の安息がまだ残っている」。彼は目を瞑った。残っている。まだ、間に合う。この言葉が、胸の奥の乾いた土に、じんわりと染み込んでいくのを感じた。

しかし、すぐ後に続く言葉は優しいだけではなかった。

> 神の言は生きていて、力があり、…心の思いやはかりごとを見分けることが出来る。

この「言」は、かつて祖母が「ことば」ではなく「ロゴス」と発音していた、あの重たい響きの言葉だ。賢一はハッとし、自分自身の内面を見つめた。彼の心の「思いやはかりごと」とは? それは、諦めと、小さな嘘と、自分を守るための計算だった。それらがすべて、この生きた「言」の前には剥き出しにされる。まるで手術用のメスのように鋭く、彼の魂の関節と骨髄とを切り離すほどに。痛みを伴う洞察だった。けれども、なぜか清められるような感覚もある。偽物が取り除かれる痛みだ。

物語の最後の部分は、偉大な大祭司イエスの描写で締めくくられていた。天を通られた方。弱さに同情できる方。賢一は、このイエスというお方が、自分が今、感じているこのもどかしさ、この飢え、そしてこの痛みを、すべてご存知なのだということを思った。ただ遠くから見ているのではなく、共にいて、その苦しみを味わってくださった方なのだ。だから、「私たちは、…ありのままを語り出そう」と書いてあるのだ。

彼は窓の外を見つめた。雨は既に上がり、舗道には水溜りがきらめいている。工場のことは考えた。明日も同じ日が始まる。しかし、何かが決定的に違う。彼の内側に、一つの「約束」が、確かな根を下ろし始めた。それは、土地でも地位でもなく、どんな状況の中でも揺るがない、「神との関係そのもの」への招きだった。

彼は、その招きに、どう応えるのか。答えはまだ出ていない。ただ、荒れ野を彷徨う歩みが、もはや同じ意味を持たなくなったことは確かだった。安息は「まだ残っている」。そして、その安息へと至る道を、彼はただ一人で歩むのではない。彼の弱さを知り尽くした大祭司が、既にその道を切り開き、今も共に歩んでおられる。賢一は、埃っぽい古い聖書をそっと閉じ、深く、深く息を吸い込んだ。十年ぶりに、本当の「明日」が来るような気がした。

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