聖書

テサロニケの灯り

エーゲ海に面した港町テサロニケ。昼間の喧騒がやみ、家々に灯がともり始める頃、ルカスは革細工の作業台からゆっくりと腰を上げた。指先は油と塵で黒ずみ、一日の疲れが肩にしみついている。窓の外には、オリーブの木々のシルエットが深い藍色の空に溶けていく。妻のマリアが台所で食器を片づける音が、静かな家に響いていた。

「また明日か」彼は独り言のように呟き、ろうそくの炎を揺らす息を吹いた。

教会の集まりは明日の夜だ。先月、ヨセフ爺さんが読んでくれたあの手紙の言葉が、時折、頭をかすめる。使徒パウロからの便り。遠く離れたロードで書かれたというその言葉は、なぜかこの町の、この家の空気を変えていった。ルカスは文字が読めない。だから、集会で耳にした言葉を、一つ一つ、記憶の糸で紡いでいくしかなかった。

集会の日、会堂はいつもより少し肌寒かった。人々の吐く息が白くかすみ、ランプの光でゆらめく。ヨセフが前に立ち、羊皮紙を広げる。彼の声は低く、しかし確かに隅々まで届いた。

「兄弟たち。その時と時期についてあなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身よく知っているように、主の日は夜の盗人のように来るのです…」

ルカスは背筋を伸ばした。盗人。その言葉が、ある晩のことを思い出させた。隣町から帰った時、物置の扉が微妙に開いていた。何も盗られてはいなかったが、あの瞬間の、冷たい緊張感。油断の一瞬が全てを壊す可能性。彼は思わず隣に座るマリアの手を探った。彼女の指が、そっと返事をした。

ヨセフの声は続く。「あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子、昼の子なのです。私たちは、暗やみや夜の者ではないのですから…」

光の子。ルカスは目を閉じ、言葉を噛みしめた。昼の子。彼の日常は、確かに暗やみと隣り合わせだった。取引先とのいざこざ、病気がちな幼い息子、先の見えない暮らしの不安。それでも——ランプの灯りが、ヨセフの皺の深い顔を優しく照らしている。周りに座る人々の顔。貧しい者、富める者、年寄り、若者。ここにいる全ての顔が、何かを求めて集まっている。暗やみではない。確かに、小さな灯りかもしれないが、灯りは灯っている。

「だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさましていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。しかし、私たちは昼の子ですから、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みのかぶとをかぶって、慎み深くしていましょう…」

胸当て。かぶと。ルカスは革細工職人だ。兵士の武具を修理したこともある。信仰が胸当て? 愛が? 彼は自分の手の平を見つめた。この手で、何を守れるだろう。そして、隣のマリア。彼女の信仰は、まるで彼を包む柔らかな革のようだ。彼の不器用な言葉を、そっと受け止めてくれる。

集会の後、家路につきながら、マリアが言った。「ルカス、あなた、最近、ため息が多いわね」

「……そうか?」

「ヨセフ爺さんの言葉、覚えている? あの、『互いに慰め合い、互いに向上させ合いなさい』って」

彼女は躊躇いなく、彼の腕に手を絡めた。道端の石畳に、二人の長い影が揺れる。「あなたは十分にやっている。でも、もっと楽になっていいのよ。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい』って言ってたじゃない」

「いつも喜べ、か」ルカスは苦笑した。「今日も、ヴィタリウスとの商談がこじれてな。あの男はほんとに——」

「感謝しなさい、とも」マリアは彼の言葉を優しく遮った。「けんかにならなかったことには、感謝できるでしょ? あなたが家に帰って来られたことには? この寒い夜に、暖かい家があることには?」

彼は歩みを止めた。目の前には、彼らが何年もかけて少しずつ直してきた、小さな家が見える。壁にはひび割れがまだ残っている。でも、窓には明かりが灯っている。中には、熱病からようやく回復しつつある幼い息子が眠っている。

「……そうだな」彼の声には、少しだけ力が戻っていた。「感謝できることは、確かにある」

次の日、ルカスは仕事場でヴィタリウスと再び顔を合わせた。いつものように腹立たしい言い分を並べるその男を見ながら、ルカスはふと、ヨセフの声を思い出した。「悪を悪をもって報いることをせず、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うことを心がけましょう」

深呼吸を一つ。彼は自分が作っている、新しい馬具の革を指さした。「君の注文したものは、来週の終わりにはできる。強度には特に気を配っている。君の馬が長く使えるように」

ヴィタリウスは意外そうな顔をした。そして、少し間を置いて、うつむき加減に呟いた。「……そうか。ありがとう」

それだけの言葉だった。何かが劇的に変わったわけではない。しかし、ルカスはその晩、マリアにそのことを話した時、彼女がぱっと顔を輝かせたのを見て、胸の奥がほんのり温かくなった。

「『すべての事について、感謝しなさい』って、難しいよな」彼はスープの入った木の椀を揺らしながら言った。「感謝できることばかりじゃない。むしろ、思い通りにならないことの方が多い」

「でも」マリアが湯気の立つパンを裂きながら言った。「パウロは『すべての事について』と言ってる。嬉しい事だけじゃなくて。思い通りにならないことについても、感謝する理由を探すのよ。たとえば——」彼女は少し考え、「たとえば、ヴィタリウスさんとけんかにならなかった今日のことを、私は感謝するわ」

彼女の言葉は、単なる慰めではなかった。それは、彼女自身が実践している信仰の形だった。息子の病床で、夜通し祈りながら、彼女は何を思い、何に感謝していたのだろう。ルカスはそれに気づいていなかった。

それから幾日か、ルカスは意識的に、目を覚まそうとした。眠っていないで、と。それは、夜更かしをせよ、という意味ではなかった。心の目を、という意味だ。仕事に没頭しながら、ふと、窓の外を飛ぶ小鳥の群れに目をやる。マリアが歌う子守唄の調べに耳を傾ける。隣人からわけてもらった干し無花果の甘さを、ゆっくりと味わう。

ある夕方、ヨセフが彼らの家を訪ねてきた。用事はない、ただ近くまで来たから、と。三人で安ワインを酌み交わしながら、老人は穏やかに話した。

「パウロの手紙の最後の方にね、こうあった。『どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように』」

家の隅では、息子が積み木で遊んでいた。病気もすっかり良くなり、頬に赤みが戻っている。

「『全く聖なるもの』か」ルカスは呟いた。「俺みたいな者に、できるのか?」

ヨセフはゆっくりとコップを置き、彼を見つめた。「ルカスよ。『ご自身が』ってある。神がなさるのだ。私たちが完全になろうと躍起になることじゃない。『また、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られて』とも書いてあった。霊も、たましいも、からだも。全部だ」

マリアがそっと手を伸ばし、ルカスの手の上に自分の手を重ねた。彼の手は、相変わらず革と土で荒れている。しかし、その下を流れる血は温かく、鼓動は確かだった。

夜、ヨセフが帰った後、ルカスは一人、作業場に残った。明日納品する馬具の最終チェックをしながら、彼は心の中で繰り返した。

目を覚ましていよう。光の子として。

善を行うことを心がけよう。たとえ小さな善でも。

感謝しよう。この灯りの下、家族が眠るこの家に。

そして、絶えず祈ろう。言葉にならない思いも、全て。

窓の外、テサロニケの町は静かに眠りについていた。星々が冷たくまたたいている。しかし、ルカスの胸の中には、盗人が忍び寄るような不気味な暗がりはなかった。代わりにあったのは、確かなものではないが、消えることのない、一筋の灯りだった。それは、彼が作る丈夫な革のように、日々の摩擦に耐え、少しずつ柔らかくなり、形を作っていくものだった。

彼は最後に工具を片付け、ろうそくの火を吹き消した。暗闇が一瞬、部屋を包む。しかし、台所から漏れる暖炉の微かな光が、敷居のところまで届いている。足元を照らすには十分な明るさだ。彼は一歩を踏み出した。

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