聖書

約束の箱舟

その日も、ノアは斧を振るっていた。肘にかかった汗が木屑に混じり、独特の匂いを立てる。百年近く、この仕事は続いている。近所の者たちは、初めこそ好奇の目で見ていたが、今ではもう誰も振り向かない。ただの頑固な老人の道楽だと。時折、遊び半分で石を投げてくる若者さえいた。ノアはただ黙って斧の一振り、一振りに全てを懸けた。神の言葉は、彼の骨髄にまで染み渡っていた。警告ではない。確かな約束だった。

夕暮れが近づき、仕事を終えようとした時、遠くの空が妙な色に濁り始めた。今まで見たこともない厚い雲が、山の稜線を這うように湧き上がってくる。空気が重くなった。今まで聞いたことのない種類の風の音が、木々の梢を渡っていく。ノアは手を止め、乾いた唇を噛んだ。その時だった。

「ノア。」

声はしない。しかし、彼の胸中には、長年聞き慣れたあの「響き」が満ちた。それは思考ではなく、意志そのものの伝達だった。時が来た。すべての生きものの中から、お前とその家族を救うため、お前と共に箱舟に入れ。

彼はゆっくりと腰を下ろし、長年使い込んだ斧の柄を撫でた。覚悟はできていた。しかし、いざその時が来ると、足元の大地が急に愛おしくなった。この土の匂い、草の息遣い、遠くで聞こえる子供たちの笑い声。全てが消え去るのだ。胸が締め付けられるような痛みを覚えながら、彼は立ち上がり、家族を呼んだ。

次の日から、ありとあらゆるものが動き出した。神の言いつけの通り、清い動物は七つがい、清くないものは二つがいずつが、方々から集まってくる。それは壮観というより、一種の畏怖だった。牙を持つものも、翼を持つものも、地を這うものも、皆、目に何か遠い、従順な光を宿して、整然と、しかし急ぎ足で箱舟の暗い入口へと消えていった。獣の唸り、鳥の羽音、土の匂いと獣の体臭が入り混じり、一種の聖なる雑然さがその場を満たした。ノアの息子たちは、驚きと恐れの入り交じった表情で、その行列を導いた。

七日間、彼らはこの働きに明け暮れた。外では、相変わらず人々が日々を送り、ノアの一家を嘲笑っていた。盛大な酒宴の音が風に乗って聞こえてくることもあった。ノアはその音を聞きながら、無言で糧食を積み込んだ。麦、乾燥肉、干し果物…その重みが、彼の背中に迫り来るものの重さと重なった。

そして七日目が終わろうとする頃、変化が訪れた。風が止んだ。不自然なまでに、万物が静寂に包まれた。鳥の声も、虫の音も、一切聞こえない。まるで世界が息を殺して何かを待っているようだった。家族全員が箱舟の巨大な扉の前で立ち尽くした。最後に外の光を見る瞬間だ。ノアは振り返り、息子たち、そして嫁たちの顔を見た。そこには不安があったが、彼への信頼がそれを上回っていた。

「皆、入るのだ。」

彼が言うと同時に、最初の一滴が落ちた。ノアの頬を伝う汗かと思ったが、違った。次に、もう一滴。そして、ぽたぽたと、大粒の雨が乾き切った土を打ち始めた。それは次第に勢いを増し、やがて天の蓋が外れたような滝となって地上を叩きつけた。家族全員が箱舟内へ駆け込む。外では、驚きと狼狽の叫び声が、雨音にかき消されるように聞こえたか、聞こえなかったか。

巨大な戸を内側から閉め、太い木の貫を通した時、外の世界との繋がりは断たれた。内部は、獣たちの息づかいと、干し草の匂い、そして闇に包まれていた。僅かな隙間から差し込む光も、すぐに消えた。外では、雨の音以外に、もう何も聞こえない。それは、世界が泣き叫んでいるのか、それとも古いものを洗い流しているのか。

やがて、水かさが増す。箱舟がゆっくりと、しかし確かに浮き上がる感覚。今までずっと踏みしめていた大地からの離反。軋む木材の音。家族は無言で、互いの手を握り合った。獣たちも奇妙に静かだった。洪水は四十日四十夜、地の上に臨んだ。箱舟は水の上を漂い、高く上がっていく。下では、かつてノアが愛したすべてのもの、嘲笑った者たちも、無邪気に遊んだ者たちも、山も谷も、全てが深い青みを帯びた闇の下に消えていった。

箱舟の中では、日常が始まった。餌やり、水やり、糞尿の始末。狭い空間で繰り広げられる生命の維持作業。時折、激しい波に揺られ、食料の桶が転げる音がした。幼い子供が泣き出す。それを母親が静かにあやす。獣の鳴き声。それら全ての生活の音が、外の荒々しい水音を背景に、かすかに、しかし確かに響く。ノアは時折、一片の隙間から外を覗こうとした。見えるのは、果てしなく広がる水、そして雨だけだった。神のさばきは、徹底的だった。

彼は祈った。洪水が人を裁くためだけのものではないことを、どこかで知っていた。この水は、すべてを無に帰すものでありながら、この箱舟という殻の中に、新たな契約の可能性を守り続けていた。闇と水と獣の臭気に満ちたこの空間が、全世界の希望の全てだった。斧を握り、ただ信じて働いた百年の歳月が、今、この方舟の浮力となっている。ノアは暗闇の中で、静かに目を閉じた。嵐の只中で、彼の心にだけは、不思議な平穏が横たわっていた。全てを委ねる先があったからだ。外の轟音は、やがて、遠い記憶の中の雨音のようになっていった。

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