聖書

荒野の愛と約束の七年

夕暮れが迫る頃、荒野を吹き渡る風は、昼の灼熱を洗い流すように冷たさを増していた。ヤコブは、足元に広がる礫の道を一歩一歩踏みしめながら、背中の僅かな荷物の重みを感じていた。ベエル・シェバを出てから幾日経っただろう。父イサクの祝福、兄エサウの怒り、それら全てが今は遠い世界のことに思えた。ただ、母リベカが囁いた伯父ラバンの名だけが、心の中で繰り返され、道標となっていた。

やがて、視界の果てに人影らしきものが群れているのが見えた。近づくにつれ、それは井戸であると分かった。大きな石が井戸の口を覆い、その周りに羊の群れがうずくまっている。羊飼いたちが幾人か、日陰で談笑していた。ヤコブは喉の渇きを覚え、また道を尋ねようと歩み寄った。

「兄弟たち、どちらからおいでですか?」ヤコブは声をかけた。
「ハランからです」と一人が答えた。
ヤコブの胸が高鳴った。間近だ。
「では、ナホルの子ラバンをご存知ですか?」
「ああ、知っている。そら、あの羊の群れをご覧。あれがちょうど、ラバンの娘ラケルが連れて来る群れだ」

その言葉が終わらないうちに、遠くから羊の足音が響いてきた。そして、彼女が見えた。砂塵を軽く巻き上げながら歩む少女。手に持った杖を巧みに操り、群れを導いている。彼女の姿が夕日に照らされた瞬間、ヤコブは息をのんだ。まるで、荒野に咲いた一輪の花のようだった。彼は理由もなく、井戸の口を覆う重い石に駆け寄った。普段なら数人でなければ動かせないその石を、一人の力で転がし、井戸の口を開いた。羊飼いたちが驚きの声をあげるのも聞こえなかった。彼は水を汲み、ラケルの羊の群れに飲ませた。

そして、ヤコブはラケルに近寄り、声を震わせて名乗った。彼女の父ラバンは母リベカの兄、つまり自分の伯父であった。ラケルは驚き、走って家に知らせに行った。ヤコブが井戸の傍らで待っていると、やがてラバンが走り寄ってきて、彼を抱きしめ、口づけした。家に招かれ、すべての経緯を語ると、ラバンはこう言った。「お前は確かにわたしの骨肉だ」

一月が過ぎた。ヤコブはラバンの家で働き、家族の一員のように暮らしていた。しかし、彼の目は常にラケルを追っていた。ある夕べ、ラバンが言った。「身内だからといって、ただで働かせるわけにはいかぬ。どんな報酬が欲しいか、言ってみよ」

ヤコブの答えは既に決まっていた。「わたしは、あなたの娘ラケルのために七年働きます」
ラバンは一瞬目を細めた。「妹を他にやるより、お前にやる方が良い。わたしのところにいなさい」

こうして、七年の歳月が流れた。ヤコブにとって、それは苦役などではなかった。ラケルを思う思いが、毎日の労働を軽いものにした。朝は彼女の笑顔を思い浮かべながら羊の囲いを開け、夜は彼女が井戸に立つ姿を思い出しながら日記を終えた。彼女の存在が、荒野の風に晒された日々に潤いを与えた。七年は、彼にとってほんの数日のように感じられた。

そして約束の時が来た。ヤコブはラバンに言った。「期限が満ちました。わたしの妻をください。彼女のところに行かせてください」 ラバンは祝宴を設け、村中の人々を招いた。宴たけなわとなった夜、花嫁はベールに覆われてヤコブの元に導かれた。彼は微かに揺れる灯火の明かりに、ベールの向こうの輪郭を見つめ、胸を熱くした。ようやく、このときが来た。

夜が明けた。薄明かりがテントの隙間から差し込む。ヤコブの傍らにいる女の顔を見て、彼は凍りついた。そこにいたのは、ラケルではなく、姉のレアだった。目の力が弱いと噂されたその姉である。ヤコブは飛び起き、激しい怒りと失望に震えながらラバンの元へ走った。

「何ということをしてくれたのですか!」声はかすれていた。「わたしはラケルのために働いたではありませんか!なぜわたしを欺いたのですか!」

ラバンの顔には、どこか覚悟の色があった。「我が郷では、妹を姉より先に嫁がせることはならぬ。この一週間、姉レアのための祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だが、そのためにもう七年、わたしのために働いてもらわねばならぬ」

ヤコブは言葉を失った。欺く者として生きてきた自分が、今、見事に欺かれた。父を騙して祝福を奪ったその報いか。それとも、ただの人間の狡さか。彼は唇を噛みしめた。そして、渋々ながらも承諾した。一週間後、彼はようやくラケルを妻として迎えた。ラケルへの愛は変わらなかった。しかし、テントにはもう一人の女がいた。レアの存在は、常に彼の心に影を落とした。ラバンは二人の女にそれぞれ、女中ジルパとビルハを与えた。

ヤコブはさらに七年、ラバンのために働き続けた。昼は羊の群れと荒野を巡り、夜は複雑に絡み合う二人の妻の思いの間にあって、静かに祈るしかなかった。荒野の風は相変わらず冷たく、時折、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。彼は井戸の傍らに立ち、あの日ラケルが現れた光景を思い出した。希望に満ちていたあの瞬間。今や、その思い出さえ、重い現実に縛られているように感じられた。しかし、彼は知らなかった。この複雑な愛と欺きの只中で、やがて十二部族の祖となる者たちが生まれようとしていることを。神は、人の欺きさえも用いて、約束の糸を紡ぎ続けておられた。

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