夕暮れが、葦で編んだ天幕の影を長く砂の上に引き伸ばしていた。一日の熱気が引き、代わりに砂漠特有のひんやりとした空気が忍び寄る時刻である。長老のエリアブは、入口の革の敷物に腰を下ろし、遠くに連なる紫がかった山脈をぼんやりと眺めていた。彼の背後では、家族が夕餉の支度をする気だるい物音が聞こえる。丁度その時、二人の男が、沈みゆく太陽を背に、真っ直ぐに彼の天幕へと歩み寄ってくるのが見えた。一人は顔をこわばらせ、もう一人は必死に何かを訴えるように手を振っている。エリアブは微かにため息をついた。争いの匂いがした。
近づいてきたのは、同じ氏族のヨシュアとカレブであった。ヨシュアの目は怒りに焼け、カレブの手はわずかに震えていた。
「長老よ、裁きを願おう」とヨシュアが声を荒げた。「このカレブは、俺が昼寝をしている間に、囲いから雌山羊を一頭、盗んでいったのだ。夕方、数を数えて気付いた。彼の囲いには、我が家のものと同じ斑の模様を持つ山羊がいた!」
カレブはすぐさま、いや、と首を振った。「嘘だ! その山羊は、はるかカデシュで、私は銀の塊と交換で得たものだ。確かに斑模様は似ているが、それだけで盗人とは!」
互いの言い分を前に、エリアブは黙った。山羊は山羊に見える。証人はいない。風がそよぎ、天幕の縁がぱたぱたと鳴る。彼はゆっくりと立ち上がり、二人の顔を交互にじっと見つめた。長い沈黙の後、彼は静かに言った。
「ならば、神が裁かれるであろう。盗まれたといわれるものは、一頭でなく、二頭返さなければならぬ、と律法は定めている。盗人が見つからぬならば、家の主は神の前に出て、手を祭壇の犠牲の血に浸し、『私はこの人の財産に手を出さなかった』と誓わねばならぬ。ヨシュア、お前はその誓いを立てる覚悟はあるか。カレブ、お前はそれを彼に要求するか」
二人は顔を見合わせた。ヨシュアの怒りの炎は、少し揺らいだ。祭壇の前での偽りの誓いは、魂そのものが呪われることを意味する。彼は唇を噛みしめ、再びカレブを見た。カレブの顔から血の気が引き、砂の色のようになった。彼はうつむき、かすかに首を横に振った。
「…山羊は、今朝、私の囲いの柵の破れからいなくなっていたかもしれない」とカレブが呟いた。「見つけた時、自分のものが帰ってきたと思い込んだだけなのかもしれぬ。…返そう。ただ…二頭はあまりに…」
エリアブはうなずいた。「律法は厳しい。奪った者は、倍にして返さねばならぬ。それは盗みが、単なる品物の損失ではなく、共同体の信頼そのものを損なうからだ。お前たちは隣人同士。これで糸目はついたか」
ヨシュアは少し間を置き、深く息を吸った。「いや、一頭で良い。彼が自ら認めたのだ。もう一頭は…神が与えてくださるだろう」
カレブの目に、安堵と悔恨の色が浮かんだ。エリアブはその和解の瞬間を、無言で見守った。律法は石のように冷たいが、それを用いるのは人の心だ。彼はそう思った。
それから数日後、今度は別の争いが持ち込まれた。遊牧民の若者が、火を焚いて肉をあぶっている最中、強い風が吹き、火の粉が飛び散って隣の畑に燃え移り、大麦の穂が焼け焦げてしまったのだ。畑の主は、若者に収穫分の全損害を賠償するよう求めた。若者は青ざめて、自分の所有する羊もろくにないと訴えた。
エリアブは、焼け跡を見にいった。黒く焦げた土地、わずかに残る萎れた穂。彼は土塊を手に取り、砕いた。
「火はお前のうちから出た。たとえ故意ではなくとも、注意を怠った責任はある。しかし、律法は言う。燃え移ったものが、積まれた束であれば、畑の主は丸々得られたはずのものを失った。故に、燃やした者は、その畑から得られる最良のものをもって償わねばならぬ。だが、もし燃えたものが、まだ刈り入れられていない立ち穂ならば…」彼は若者の苦しそうな顔を見た。「…それは、神が育もうとしておられるものを、人が完全に手中に収める前に失ったものだ。ならば、賠償は…別の畑で取れる分で良い。お前が貧しければ、七年目には負債は解かれる。神は寛容だ」
若者は涙を流して感謝した。畑の主は不服そうだったが、エリアブの「神の裁きは常に、弱き者への目配りを忘れぬ」という言葉に、黙ってうなずいた。
月日は流れ、エリアブのもとには様々な訴えが届いた。預かっていた友人の銀が盗まれ、犯人が見つからなかった男。彼には、盗まれた品の二倍を神の祭壇に捧げ、自らの潔白を誓う道が示された。無垢の処女と婚約しながら、彼女がそうでないと噂された花婿。その父は、婚資として払った銀を返すよう求め、娘の純潔を証明する家族の布を祭壇の前に広げた。そして、裁きは下された。噂は虚偽であり、娘の名誉は保たれた。
夜、エリアブは一人、星空を見上げる。無数の砂粒のような星々が、冷たくまた優しく輝いている。彼は思う。これらの律法は、何のためにあるのか。それは単なる規則の羅列ではない。人々が、互いの財産、身体、尊厳を、神から預かった大切なものとして守り合うための、目に見える形なのだ。盗みがあれば償いが、火の不始末があれば責任が、名誉の毀損があれば証拠が求められる。それは、砂漠のように荒涼とした人間関係に、信頼という井戸を掘る作業なのだ。
ある時、彼は迷う者たちにこう語った。「隣人のろばが、荷物の下に倒れているのを見ても、見て見ぬふりをしてはならない。助けなければならない。我々は皆、エジプトの奴隷であった。弱き者、寄留者の嘆きを、神はご自身で聞かれる。私たちも、その神の耳とならねばならないのだ」
彼の言葉は、律法の文字を超えて、人々の胸に落ちていった。罰則や賠償の規定は、慈愛の実践を可能にするための、堅固な土台であった。損害を倍にして返せ、という条文の裏側には、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という、より深い響きが聞こえるようだった。
エリアブは天幕に戻り、羊皮紙にぼんやりと目を落とした。そこに記された掟は、冷たくはなかった。それは、荒れ野を共に渡り行く民に与えられた、命を守る地図であった。そして彼自身、その地図を手に、今日もまた、隣人と隣人の間の狭き道を、誠実に歩んでいくのであった。遠くで、狼を警戒する羊飼いの叫びが、清冽な夜の空気に乗って、かすかに聞こえてくる。




