その日も、雅彦は教会の牧師書房で深夜まで机に向かっていた。窓の外は漆黒で、街灯の光が斜めに床を照らすだけだった。彼の目の前には、来週の日曜礼拝の説教メモが広がっている。テキストは、言うまでもなくコリントの信徒への手紙一、十三章。彼はこの箇所を扱うことに、どこか気後れを感じていた。愛について語る——それは、彼が最も苦手とする分野の一つだった。
雅彦は四十二歳。神学校を卒業してから三つの教会を牧会し、今の教会には五年目になる。教義には明るく、説教も論理的だと評判だった。しかし妻の恵子は、時折、夕食の席でこう言ったものだ。「あなたの説教は、頭にはよく届くんだけどね。でも、ここには届かないときがあるの」そう言いながら、胸の辺りに手を当てる仕草が、雅彦には少し痛かった。
説教の準備を進めながら、彼はふと、先週起きた出来事を思い出した。教会の建築委員会でのことだ。礼拝堂の改築を巡り、熱心な信徒の松本兄弟と意見が対立した。松本は実務家で、費用対効果を徹底的に追求するタイプ。雅彦は、むしろ聖なる空間としての美しさを優先させたかった。議論は白熱し、ついには雅彦が声を荒らげてしまった。「数字だけがすべてじゃないでしょう! わたしたちは信仰共同体なんです!」その言葉の後、松本の顔が一瞬で曇ったのを、雅彦はよく覚えていた。彼は正しいことを言った。少なくとも、教会的な観点からは。だが、何かがすれ違っていた。委員会は沈黙で終わり、その後、松本はぱったりと教会の諸活動に顔を出さなくなった。
「愛がなければ……」雅彦は小声で呟き、ペンを置いた。彼の説教メモには、ギリシャ語原典からの語句分析が細かく記されていた。ἀγάπη——アガペー。神の愛。無条件の愛。彼はそれを説明する理論を幾つも知っていた。しかし、それが松本兄弟への自分の態度にどう反映されていただろうか。彼はため息をついた。
その週の水曜日、教会の小さな祈祷会が開かれた。参加者は十人ほど。高齢の姉妹たちが多かった。祈祷会の後、いつもなら雅彦はすぐに書房に戻るのだが、その日はなぜか足が止まった。談話室で、大野という八十歳近い姉妹が、片手に聖書を持ちながら珈琲をすすっていた。彼女は教会の古くからの信徒で、戦中派だった。雅彦が近づくと、彼女は顔を上げてにっこり笑った。
「先生、コリントの愛の章について説教なさるんでしょう? 楽しみにしていますよ」
「ええ、ですが……なかなか難しいテーマです」
「ふうん」大野姉妹はゆっくりと珈琲カップを置いた。「私ね、この章が一番好きなんです。戦争が終わった頃、全てを失って、このみ言葉だけが残ったような気がしたものですから」
彼女は話し始めた。終戦直後、夫を空襲で失い、幼い子を抱えて路頭に迷ったときの話。教会の炊き出しで一杯の粥をもらい、その横にいた見知らぬ老婆が、自分のパンを半分に割ってくれたという。「あのときね、先生。私は神学なんて何も知らなかった。でも、あのおばあさんが破ったパンを見て、ふと、これが愛なんだと思ったんです。何も言わないで、ただ分けてくれた。それが全部でした」
雅彦は黙って聞いていた。大野姉妹の言葉には、彼の説教メモに書かれたどの解説よりも重みがあった。彼は「愛は忍耐強い」という一節を思い出した。理論としてではなく、あの老婆の黙った行為そのものが、忍耐強さだったのではないか。自分の説教が、そうした生きた実感からどれだけ離れているか、雅彦は胸が苦しくなった。
金曜日の午後、恵子が書房にやって来た。彼女は無言で雅彦の机の上を整理し、埃を払い始めた。
「来週の説教、順調?」彼女はふと尋ねた。
「まあ……そうでもないな。愛について語るのは、ほんとうに難しい」
恵子は手を止め、彼を見た。その視線は柔らかく、しかしどこか哀しみを帯びていた。
「あなたが昨日、電話で松本さんと話してたでしょ。またああいう話し方をしていたわね。『しかしですよ』って言いながら、最後には相手の話を全然聞いてないって感じだった」
「彼は誤解しているんだ。わたしは教会のためを思って——」
「そう。あなたはいつも正しいの」恵子の声は穏やかだったが、言葉は鋭かった。「でも、雅彦さん。正しいことと、愛があることは、同じじゃないときがあるのよ」
恵子が去った後、雅彦はじっと窓の外を見つめていた。彼女の言葉が胸に刺さった。彼は確かに、松本に「正しいこと」を説いた。しかし、松本の悔しさや、教会に対する深い思いに、どれだけ耳を傾けただろうか。愛は——「親切である」。ただの礼儀正しさではなく、相手の内側に踏み込もうとする態度。彼にはそれが欠けていた。
土曜日の朝、雅彦は思い切って松本の家を訪ねた。応対した松本は、最初、硬い表情を崩さなかった。
「先生、わざわざすみませんね。でも、あの件はもう——」
「いえ、建築の話じゃありません」雅彦は言った。「ただ……あなたの話が聞きたくて。あなたがこの教会をどんなふうに思っているのか、わたしはよく知らないままでした。すみません」
松本は少し驚いたようだった。しばらく沈黙が続き、やがて彼はゆっくりと話し始めた。三十年近く前、この教会で洗礼を受けたこと。子供たちがみなこの教会の日曜学校で育ったこと。老朽化した礼拝堂を見るたび、自分に何かできることはないかと思っていたこと。「先生、わたしは数字にうるさい男ですよ。でもね、それは無駄遣いをしたくないからじゃない。この教会に捧げられるお金が、一分一厘も無駄にならないようにしたいからなんです」
雅彦はうなずきながら聞いた。彼の心に、あるみ言葉が浮かんだ。「愛はねたまない」。自分は松本の情熱を、単なる世俗的な計算だと早合点していた。彼の献身をねたまず、むしろ喜ぶべきだった。話は一時間以上続き、最後には二人で珈琲を飲んだ。建築の設計については意見の相違は残った。しかし、お互いの根底にある教会への愛は、同じものだと確認できた。
日曜日が来た。礼拝堂にはいつも通りの信徒たちが座っていた。雅彦は壇上に立つと、一呼吸置いて話し始めた。事前に練った説教メモは、ほとんど使わなかった。
「わたしは今日、コリントの信徒への手紙一、十三章からお話しします。が、まずお詫びしなければならないことがあります」彼は会衆を見渡した。「この『愛の章』を準備しながら、わたし自身がどれだけ愛から遠く離れていたかを、思い知らされました。知識や信仰の熱心さを誇りながら、隣人を傷つけることを平気でしていた。それがわたしです」
会衆の中には、驚いた顔も見えた。雅彦は続けた。
「愛は忍耐強い。しかし、わたしはすぐに怒鳴ってしまった。愛は親切である。しかし、わたしは自分の正しさを押し付けるだけで、相手の痛みに寄り添おうとしなかった。愛は決して滅びない。しかし、わたしの振る舞いは、兄弟の心を萎えさせかねなかった——」
説教は、彼にとってこれまでで最もまとまりのないものになったかもしれない。ギリシャ語の分析も、巧みな比喩もなかった。代わりに、大野姉妹の話や、松本との和解の経緯、そして妻の恵子からの気づきを、ありのままに語った。彼の声は時折詰まり、言葉を探す間ができた。完璧な説教ではなかった。しかし、礼拝堂の空気は次第に温かく、重厚なものに変わっていった。
説教の終わりに、雅彦はこう結んだ。
「パウロは言います。『わたしがもし、優れた預言の賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい』……この『無に等しい』という言葉、実はものすごく響きますね。わたしたちのすべての努力、すべての奉仕、すべての信仰表現が、愛という土台がなければ、砂の上の家のように崩れてしまう。愛とは、結局のところ、隣りの人の前にひざまずき、その話に耳を傾ける、そんなところから始まるのではないでしょうか。理論ではなく、行いとして。そしてそれは、時として、自分がどれだけ無力で、足りない者であるかを認めることから始まるのだと思います」
礼拝後、何人かの信徒が雅彦のもとにやって来た。松本もその中にいた。彼は何も言わず、雅彦の手を握って強く握り返しただけだった。大野姉妹は、にっこり笑って小さくうなずいた。
その夜、家で恵子と食事をしていると、彼女がふと言った。
「今日の説教、よかったわ」
「そうかね……まとまりがなくて、自分では不安だったよ」
「まとまりなんていらないの」恵子は微笑んだ。「あなたいつも、完璧な説教をしようとしてた。でも今日のは、あなた自身が出てた。それが、一番人に届くんだよ」
雅彦は黙ってうなずいた。窓の外には細い月がかかっていた。彼はまだまだ道半ばだと感じた。愛は忍耐強い——それは、自分自身に対する忍耐でもあるのだろう。日々、失敗し、立ち上がり、また隣人の前にひざまずく。その繰り返しの中でしか、愛は育まれない。
彼はそう思った。そして、これからもそうして生きていくのだろう、と。完全に到達することはない。それでも、追い求め続ける。なぜなら、愛こそが、すべてのものに終わりが来ても、決して滅びないものだからだ。




