**第二コリント人への手紙 第3章に基づく物語**
エーゲ海の穏やかな波が岸辺を優しく打つ、マケドニアの町フィリピ。パウロは、粗末な旅装を解き、小さな宿屋の一室で羊皮紙に向かっていた。ろうそくの灯が揺れ、壁に彼の影を大きく映し出す。外では夜風がそよぎ、オリーブの葉がかすかにざわめいていた。
「兄弟たちへ……」
パウロの筆が滑る。インクが滲み、言葉が紡がれていく。彼の心には、コリントの信徒たちの姿が浮かんでいた。彼らはキリストの福音に触れ、新たな希望を得たはずだった。しかし、今も古い契約の文字に縛られ、律法の重荷から完全に自由になれずにいた。
**「あなたがたは、キリストによって私たちの心に書きつけられた、生ける神の手紙です。」**
パウロは深く息をついた。この言葉は、単なる比喩ではなかった。かつてシナイ山で石の板に刻まれた十戒は、神の義を示すものだったが、それだけでは人の心を変える力はなかった。しかし今、新しい契約がもたらされた。聖霊が人の心に直接、神の律法を刻むのだ。
彼の思いは、モーセの時代へと遡る。あの輝く顔、神の栄光を覆い隠すために顔に掛けたヴェール。イスラエルの民は、その輝きに耐えられず、モーセ自身も光を隠さざるを得なかった。
「しかし、今は違う……」
パウロの目に炎のような確信が灯った。キリストが来られ、ヴェールは取り去られた。もはや、神の栄光は隠されるものではない。信仰をもってキリストに向かう者には、覆いなく神の栄光が現れる。
**「主の霊のあるところには自由があります。」**
この自由は、放縦ではない。聖霊による内なる変革、神の似姿へと造り変えられる栄光から栄光への道だ。パウロ自身、かつては律法の熱心な執行者だった。しかし、ダマスコ途上で出会ったキリストの光は、彼を打ち倒し、そしてまったく新しく生かした。
「コリントの兄弟たちよ、この恵みを理解してほしい……」
パウロの筆は力強く動く。彼らの心に、聖霊が直接語りかけてくださることを信じて。石の板ではなく、血肉の心に刻まれる神の言葉は、死をもたらす文字ではなく、命を与える霊なのだ。
夜更け、ろうそくの炎が細くなりかけた。パウロは巻物を巻き、静かに祈った。
「主よ、彼らが真の自由を知り、あなたの栄光を覆うことなく、大胆に御顔を仰ぎ見ることができますように。」
そして、彼は再び旅路につく準備を始めた。この手紙がコリントに届き、信徒たちの心に聖霊の風が吹き、古い契約のヴェールが完全に引き裂かれることを願いながら。
(終わり)