**信仰のレースを走り抜けて**
荒野の砂漠を吹き渡る熱風が、イスラエルの民の顔を焼いた。モーセに導かれてエジプトを脱出した彼らは、約束の地を目指して歩み続けていた。しかし、荒れ野での苦難は想像以上に厳しく、不平とつぶやきが民の間に広がっていた。その時、神はシナイ山に雷と密雲と共に現れ、十戒を与えられた。山は震え、民は恐れおののいた。神の聖さの前で、誰ひとりとして軽々しく近づくことは許されなかった。
それから数百年後、神は新しい契約をもたらされた。かつてシナイ山で示された畏れ多い光景とは異なり、今や人々は「シオンの山」、すなわち天のエルサレムに招かれていた。そこには、無数の天使たちの喜びの声、神の御前に集められた聖徒たち、そして、新しい契約の仲介者であるイエス・キリストがおられた。この方の血は、アベルの血のように叫ぶのではなく、罪を完全に赦す恵みを宣言していた。
**信仰のレース**
「そうであれば、わたしたちも、このように多くの証人に囲まれている以上、すべての重荷とまつわりつく罪とをかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走りぬこうではないか。」(ヘブライ12:1)
アンティオキアの教会で、パウロの教えを受けたステパノは、この言葉を深く胸に刻んだ。彼の周りには、かつて信仰によって勝利を得た先祖たちの姿があった。アブラハムは約束の地を目指して旅立ち、モーセは王宮の栄華を捨てて神の民と苦難を共にし、ダビデは巨人ゴリアテを倒した。彼らは皆、目に見えない神の約束を信じ、困難の中でも歩み続けた。
しかし、ステパノ自身の信仰の道は平坦ではなかった。彼はユダヤ人たちから反逆者と罵られ、石打ちの刑に処せられようとしていた。その瞬間、彼は天が開かれるのを見た。栄光に満ちたイエスが神の右に立っておられた。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」
ステパノの最期の祈りは、かつて十字架で敵を赦したイエスそのものだった。彼の死は、一見敗北のように見えた。しかし、その血は教会の種となり、サウロ(後のパウロ)のような迫害者さえも変える力となった。
**父なる神の訓練**
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはならない。主に愛される者を、主は鍛えられるからである。」(ヘブライ12:5-6)
エジプトの荒野で、若きモーセは自分の力で同胞を救おうとし、失敗して逃亡した。その後、40年間、ミディアンの地で羊飼いとして過ごした。その孤独と待ち時間こそ、神が彼を鍛え、傲慢を砕き、柔和な指導者へと造り変えるための訓練だった。
同様に、ダビデはサウル王からの迫害を受け、洞穴に隠れながらも、神への信頼を学んだ。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。」(詩篇23:1)と歌った彼は、苦しみの中で神の養いを知った。
現代の信徒たちもまた、試練に直面する。病、人間関係の不和、経済的困窮――それらは一見、神の不在を思わせる。しかし、ヘブライの著者は語る。「すべての訓練は、当座は喜ばしいものではなく、むしろ苦しく思われる。しかし後になると、それによって鍛えられる者に、義という平安な実を結ばせる。」(ヘブライ12:11)
**揺るがない御国を受けよ**
シナイ山が震え、モーセでさえも恐れおののいたように、この世界のすべてのものはやがて揺り動かされ、消え去る。しかし、信仰によって立つ者たちは、「揺るがない御国」を受ける。
ヨブはすべての財産と子どもを失い、体は病に冒され、友人は彼を神に逆らう者と責めた。しかし、彼は叫んだ。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21)
試練の果てに、ヨブは神との生きた出会いを経験した。彼は神の偉大さの前にひれ伏し、かつては耳で聞いていたことを、今や目で見た。
**結び**
「だから、萎えた手と弱くなったひざとをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道をつくりなさい。」(ヘブライ12:12-13)
信仰のレースは、孤独な戦いではない。雲のように囲む証人たちが励まし、イエスが道を開き、聖霊が内に力を与えてくださる。たとえ今、荒野の中にいても、約束の地は確かにある。
「ですから、私たちは揺り動かされない御国を受けているのです。感謝しよう。感謝をもって、畏れと敬虔とをもって、神に喜ばれるように仕えていこう。」(ヘブライ12:28)
こうして、聖徒たちの旅は続いていく。