その日、小笠原忠司は久しぶりに教会の小さな書斎の窓を開けた。外は五月雨の気配を纏った曇天で、湿った風が、机の上に積まれた古びた注释書のページをそっとめくった。六十二歳。彼がこの町の小さな集会を預かって、もう三十年近くになる。年月は彼の背を少し曲げ、髪を銀色に変えていたが、目だけは、深い湖の底のような静かな輝きを失っていなかった。
彼は今朝、ヘブライ人への手紙第三章を黙想していた。目の前には、メモ用紙が一枚。そこには走り書きのように一節が記されていた。「だから、兄弟たち、聖霊を通して言われているとおりに、『きょう、御声を聞くならば、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。』」
彼は窓辺に立って、遠くの丘陵をぼんやりと眺めた。その向こうには、新しい大型商業施設の建設が始まっており、クレーンのシルエットが曇り空に不自然な角度で突き刺さっていた。進歩という名のざわめきが、ゆっくりと、しかし確実にこの町にも迫ってきている。
ふと、彼の脳裏に、モーセの姿が浮かんだ。荒れ野。灼熱の砂。不平と不満の渦巻く民を率いて、どこまでも続くように思える旅路を歩む、あの忍耐の人。ヘブライ書の記者は言う。「彼は、神の家全体に仕える者として忠実であった。」忠実。その言葉が、忠司の胸の奥で鈍く響いた。派手な奇跡を起こす預言者でも、王国を打ち立てる戦士でもない。ただ、与えられた家の務めを、日々、倦むことなく果たした者。彼は自分の半生を、その「家」の小さな一角で、人知れず壊れかけた椅子を修復し、絨毯のほこりを払い、訪れる者のためにお茶を用意するような仕事に費やしてきたように思えた。
しかし、その忠実さの核心は、どこか遠くにある栄光ではなく、今、ここにある「約束」への信頼にあった。モーセが約束の地を目前にしながら、その中に入れなかった民の姿が、忠司の瞼の裏にちらついた。あの民は、目の前の巨人と城壁に心を奪われ、背後にいて彼らを支え、導いていた方を忘れた。御声を聞きながら、聞かなかった。それが「かたくなな心」の正体だった。
書斎のドアが静かにノックされた。入ってきたのは、教会で最も長く、そして最近最も表情を曇らせている信徒の一人、杉野だった。六十代半ばの彼は、かつては建設現場で働くがっしりとした体躯の持ち主だったが、今は病で体が思うように動かず、何よりも、彼の息子が教会から遠ざかっていることを苦にしていた。
「先生、ちょっと、よろしいですか」
杉野はもどかしそうに言葉を探すようにして、最近の町の変化、特に若い世代が新しい商業施設に夢中になる様子について、歯切れの悪い愚痴をこぼした。「あそこには、何でもあるんです。楽しみも、娯楽も。うちの教会には…何があるんでしょう。息子は、もう礼拝にもろくに来ません。信仰が、古びた道具みたいに思えてきた、なんて言うんです」
忠司は黙って彼の話を聞いた。窓から流れ込む柔らかな灰色の光が、二人の間に横たわる。彼はヘブライ書の言葉を思い出していた。「兄弟たちよ。あなたがたの中に、不信仰な悪い心を抱いて生ける神から離れ去る者がないように注意しなさい。『きょう』と呼ばれている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪の惑わしによってかたくなにならないようにしなさい」
「杉野さん」忠司はゆっくりと口を開いた。「あなたは、あの商業施設が完成したら、息子さんと行ってみたいですか」
意外な質問に、杉野はきょとんとした。「え? まあ…せっかく近くにできるんですから、一度は…」
「そうですね。でも、もしその施設が、明日にでも崩れるかもしれない、砂上の楼閣だとしたら?」
「それは…困りますね。そんな不安定なところには、わざわざ行きたいとは思いません」
「その通りです」忠司は弱々しく、しかし確かな笑みを浮かべた。「私たちは、揺るがない土台の上に建てられた家に招かれている。モーセが仕えたあの家です。でも、その家は、石や木材でできているわけじゃない。約束と、忠実さで出来ている。そして、モーセが仕えたその家を建てた方を、私たちはもっと偉大な方として知っている。キリストが、御子が、その家を治めておられる。この家のすみずみまで、私たちの弱さや不安を知り尽くした方によって」
彼は机の上の聖書を指さした。「問題は、新しい施設ができることでも、若い人が新しい楽しみを求めることでもない。問題は、私たちの心が、日々、『きょう』というこの瞬間に語りかけておられる御声から、そらされてしまうことなんです。荒れ野の民が、約束よりも目の前のエジプトの肉鍋を思い出したように。御子が治めるこの家にいるという、この確かで尊い現実よりも、すぐ目の前の、もろくて儚いものに心を奪われる時、私たちの心は、知らず知らずのうちにかたくなになっていく。息子さんが感じている『古びた道具』という感覚は、もしかしたら、この家そのものが古びたのではなく、私たちが、この家の主人の声を、新鮮な驚きと信頼をもって聞くことを怠り、家の壁ばかりを見つめてしまった結果なのかもしれません」
杉野は深く沈黙した。外では、小雨が静かに降り始め、窓ガラスを伝う雫が、ゆっくりとした軌跡を描いていた。
「『きょう』か…」杉野が呟いた。「先生は、毎日が『きょう』だと言われる。でも、この『きょう』は、なんだか重たいです」
「ええ、重たいかもしれません」忠司はうなずいた。「約束は希望ですが、約束への道は、しばしば荒れ野のように感じられる。モーセの旅路のように。でも、忠実な方は、その荒れ野のただ中で、雲の柱、火の柱として共にいてくださった。それが、家の主の忠実さです。私たちに求められているのは、その主の忠実さに、私たちの小さな忠実さで応答すること。隣の人を、日々、励ますこと。それは、大それた説教じゃない。あなたが今、息子さんを思い、彼のために祈り、彼と一言でも会話を交わそうとする、その一つ一つが、『きょう』という日に響く励ましなのです」
やがて杉野が帰った後、忠司は再び窓辺に立った。雨は細やかに降り続き、遠くのクレーンの姿は霞んで見えた。彼の心には、静かな確信が広がっていた。この町がどれほど変わろうとも、人々の心がどれほどさまよおうとも、「きょう」というこの日に、御声を聞くための小さな共同体がここにあること。そして、彼に託された務めは、モーセのように、目に見える成功ではなく、目に見えない方への忠実さを、この家の片隅で生きることだと。
彼は書斎の埃っぽい空気を深く吸い込んだ。ヘブライ書の言葉が、もう説教の題材ではなく、この部屋の空気そのもの、彼の呼吸そのものに溶け込んでいくのを感じた。「私たちは、もし最初の確信を終わりまでしっかりと保てば、キリストににあずかる者となるのである。」
窓の外では、雨が古びた教会の屋根を優しく打ち、それはまるで、絶え間ない、忍耐強い励ましの囁きのように聞こえた。今日も、この小さな「家」は、主の忠実さに支えられて、かたくなな世界のただ中で、御声に耳を傾けるための、柔らかく開かれた場所として在り続ける。荒れ野の民のように安息に入れなかったという警告は、彼にとって、むしろ「きょう」という恵みの日が、まだ、ここにあるという何よりの約束へと変わっていった。彼はペンを手に取り、メモ用紙の余白に、ごく自然に、ただ一言書き加えた。
「聞け。」




