その日、モーセは足に感じる石の冷たさよりも深い疲労を覚えていた。それは荒野の四十年を超える、魂の重みのようなものだった。彼はゆっくりと、ピスガの峰と呼ばれるネボ山の頂へと登って行った。息は白く、朝の冷気が枯れた草を覆っていた。一歩ごとに、膝や腰に鋭い痛みが走る。百二十歳とは、このような感覚なのか、と彼はふと思った。肉体は衰えても、目はかすまず、生命力は尽きてはいなかった。しかし主が告げられた言葉は、彼の内側で確かな終わりを告げる鐘の音のように響いていた。
頂上に立つと、突如として視界が開けた。東から昇る朝日が、ヨルダン川の流域全体を黄金に染めていく。眼下には、広大な塩の平原、死海の青黒い輝きが横たわり、その向こうには、うっすらと霞むエリコの町の棕櫚の林が見える。北へと目を転じれば、ギルガルやベテルへと続く丘陵地帯が幾重にも連なり、遥か遠くには、エフライムとマナセの山地が青い影を落としていた。西には、地中海へと続く平野が広がっているのかもしれない。風が吹き抜け、彼の白髪を揺らした。ここが、約束の地か。
彼はうつろに立っているのではなかった。一つひとつの谷や丘、遠くの集落のかすかな気配にまで、彼のまなざしは注がれていた。主がアブラハムに、「あなたの子孫に与える」と誓われた地。乳と蜜の流れる地。彼はそれを、この目で見ている。しかし、足を踏み入れることは許されない。あのメリバの水の事件、彼が怒りに任せて岩を二度打ち、主の聖さを民の前に現さなかったあの過ちが、今、彼をこの境界線に立たせているのだ。
彼の胸中には、複雑な情感が渦巻いた。痛みのような、諦めのような、しかし不思議な満足にも似た静けさ。長い旅路の果てに、目的地を目前にしながら、そこで自分の役目が終わることを知る者の心境である。彼はこの民を、エジプトの奴隷の家から連れ出し、葦の海を渡らせ、シナイで契約を授け、この国境まで導いてきた。もう、いい。彼の仕事は完了したのだ。
「ヨシュアよ。」
彼は呟くように言った。あのヌンの子、雄々しく信仰深い次の指導者を、彼はしっかりと訓練したつもりだ。民は彼に従うだろう。主が共におられる限り。モーセは目を細め、遠くの地を、今はまだ見知らぬ町々や畑を、慈しむように見つめた。彼らがそこで、主を礼拝し、平和の内に住む日を、心に描いた。それは彼自身が入ることができない祝福の光景であったが、その想像さえも、今の彼には甘い悲しみとして胸に染み渡った。
日が高くなるにつれ、体力が急速に衰えていくのを感じた。彼は岩によりかかり、ゆっくりと腰を下ろした。もはや痛みさえも遠く、深い安らぎが四肢を包み始めていた。荒野の幕屋で、主と顔と顔を合わせて語り合ったあの燃えるような経験。十の言葉が刻まれた石の板の重み。民の不平の声に囲まれた夜の孤独。すべてが、色あせた巻物の絵のように、静かに去って行く。
そして、ついに彼の目が閉じられた。そこには、恐れも未練もなかった。ただ、主の僕としての務めを果たした者への、深い満足と休息があった。聖書は簡潔に記す。「主の言葉のとおり」、彼はそこに息を引き取った。主ご自身が、彼の葬りをなされたという。その場所を、今日に至るまで知る者はない。
ヨルダンの対岸、モアブの平野では、イスラエルの全会衆が三十日間、モーセのために喪に服し、悲しみの時を過ごした。涙と共に追想されたのは、あの畏るべき力と、驚くべきしるしと奇跡の数々ではなかった。むしろ、彼がかつて主の前に立ってとりなした無数の瞬間、彼の柔和な人柄、律法を教える際の忍耐深さ、そして何よりも、約束の地を目前にしながら、自らは入ることなく彼らを祝福へと導き届けた、その無私の奉仕であった。
やがて喪が明け、民の目はヨルダン川の向こう岸に向けられた。ヨシュアは、モーセから知恵の霊を授けられ、顔つきも凜として変わっていた。民は彼に従い、川を渡り、長い約束の実現への第一歩を踏み出した。
ネボ山の頂は、再び静寂に包まれた。風だけが、かつて主の僕が立ち、約束を目に焼き付け、そして眠りについた岩場を吹き抜けて行く。モーセのような預言者は、再びイスラエルには起こらなかった。主が彼を、顔と顔を合わせて選び知られたように。彼の物語は、約束と導きと、そして時には不可解なほどの主の義と恵みの深さを、後の世代へと語り継ぐ、消えることのない灯火となったのである。




