ユーフラテスの水は、今日も濁ってゆったりと流れていた。水辺に立つ煉瓦の大城壁は、夕日に照らされるとき、まるで熔けた銅のように輝く。バビロンは、その名の通り、「神の門」であった。だが今、この門は驕りに錆びつき、中に満ちた富と暴力の臭気が、風に乗ってさえやってくるようだった。
エルダドは、運河沿いの雑踏の中で、黙って筵を編んでいた。七十歳に手の届くユダの老人。捕囚の民として、この巨大な都に連れて来られてから、もう幾星霜だろう。指先には、故郷の土の記憶がまだしみついている。その指が、今はバビロンの葦を扱う。耳には、絶え間ない喧騒――商人の掛け声、兵士の足音、神殿からの曖昧な詠唱が、ざわめきとして流れ込む。
「エルダド、聞いたか。」
隣で陶器を焼いていたヨナタンが、声を潜めて言った。顔には煤が付いている。
「また、北の工事場で倒壊事故があったそうだ。十人以上、下敷きだという。彼らは、ただ煉瓦を積み上げ、また積み上げる。」
エルダドはうなずいただけで、編み目を確かめる。彼らが住む区域は、都の東、労働者と傭兵、そして捕囚の民が雑居する場所だ。華やかな宮殿や空中庭園からは程遠い。ここでは、奢りと悲惨が背中合わせに息づいていた。
彼の思いは、遠く離れたエルサレムに飛ぶ。廃墟と化した町、泣き叫ぶ声、そして預言者エレミヤの、あの渇いたような、しかし力強い言葉。「バビロンは、金の杯だ。主の手に握られ、全地を酔わせた。しかし、その杯は、ついに割れる。」
その預言の写しが、密かに捕囚の民の間を回っていた。羊皮紙の切れ端に、慌ただしい筆跡で記された言葉。エルダドはそれを暗誦していた。夜、粗末な寝床で目を閉じると、文字が浮かぶ。「彼女の海を涸らし、その泉をかわかす、と主は言われる。」 ユーフラテスのことだ。この都の大動脈を、主が枯れさせると。
ある蒸し暑い午後、都に変な噂が立ち始めた。北からの隊商が、珍しく慌てた様子で城門を通り、役人に何か訴えている。メディアの山地で、王たちが結束し、巨大な軍を編成しているという。最初は、辺境の争いだろうと片付けられた。バビロンは無敵だった。その城壁は、二重、三重に巡らされ、門は青銅で固められている。兵士は精強で、戦車は数え切れない。
しかし、エルダドは空気の変化を感じた。市場の物価が、わずかに、しかし確実に上がった。下級官吏たちの顔に、これまで見せなかった焦りの影がちらつく。宮殿からの宴の音が、以前より甲高く、狂おしく聞こえるときがあった。まるで、今夜が最後であるかのように。
そして、運河の水が、なぜか濁りが増し、水量が減っているように思えた。人々は「日照りだ」と言った。だがエルダドには、あの預言の言葉が、川面にささやいているように聞こえた。
滅びの前夜は、意外なほど平穏に訪れた。都の中心では、大宴会が開かれていた。ある将軍の戦勝記念だという。葡萄酒の匂いが、風に乗って労働区域まで流れてくる。金の杯が触れ合う音、嬌声、管弦の乱れた調べ。バビロンは、まさに金の杯そのものだった。世界中から搾り取った富と栄光で、自分自身を酔わせている。
エルダドは家の戸口に座り、ヨナタンと無言で杯を傾けた。水で薄めた酸っぱいビールだ。
「もうすぐだ。」 エルダドが呟くと、ヨナタンはこっくりとうなずいた。
「あの言葉の通りになるのか。」
「主の言葉は、必ず実現する。彼らは、岩のようなつもりの城壁を誇る。しかし、万軍の主は言われる。『その広い城壁は地に倒され、高い門は火で焼かれる。』 労苦は灰になり、国民は疲れ果てるのだ。」
その夜、彼らは早々に床についた。遠くから宴の音が、不気味に響いてくる中で。
真夜中過ぎ、エルダドは何かで目を覚ました。音ではない。振動だ。地を伝う微かな軋み。そして、遠くで、一つ、また一つと、かすかな喚声が上がる。それが次第に、怒涛のような轟鳴へと変わり始めた。
彼は外へ飛び出した。空は曇っており、星も月も見えない。しかし、都の北西の空が、不自然に明るい。橙色の光がゆらめき、黒煙が立ち昇っている。火事だ。だが、それだけではない。金属のぶつかり合う音、馬の嘶き、そして、聞いたことのない鬨の声が、風に乗って流れてくる。
「門が破られた!」
誰かが金切り声で叫んだ。混乱が一気に広がる。人々が家から飛び出し、方々を走り回る。兵士らしき一団が、乱れた隊列で中央広場へ駆けて行く。その顔は、恐怖に歪んでいる。
ヨナタンが喘ぎながらやって来た。
「メディアだ……ペルシャだ! 城壁の水門を……川の流れを変えて、干上がらせた! 兵士たちが、川床を伝って城内へ……宴会場を急襲したという!」
預言の言葉が、エルダドの脳裏を駆け巡る。「彼女の海を涸らし、その泉をかわかす。」 まさに、このことだった。バビロンの堅固さを支えていた大川が、逆に弱点となった。神は、彼らが頼みとするものを、彼らへの罠とされた。
都の内部では、戦闘の音が激しさを増した。炎はあちこちで上がり、宮殿の方向からは、逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。奢り高ぶった者たちの宴は、血と恐怖の阿鼻叫喚に変わった。金の杯は、ついに砕け散った瞬間だった。
エルダドとヨナタンは、他の捕囚の民らと共に、粗末な家屋に身を潜めた。窓から見える通りは、略奪を始めた兵士や、混乱に乗じたならず者たちでごった返していた。バビロンの秩序は、一夜にして霧散した。
三日三晩、混乱は続いた。やがて、新しい支配者による布告が、街角に貼り出された。ペルシャの王キュロスの名による、秩序の回復と、諸民族への寛容の宣言。そして、その中に、一行の言葉が織り込まれていた。
「ユダの民よ、それぞれの町に帰り、エルサレムに神殿を再建せよ。」
エルダドは、その布告の前で、ただ立ち尽くした。周りから、すすり泣く声が聞こえる。長い歳月、希望さえ忘れかけた苦しみの日々。それが、突如として終わりを告げる。主の約束は、こうして実現する。裁きと救いは、一枚の織物の表裏のように、同時に進行していた。
彼はゆっくりと自らの家へ戻った。ごくわずかな所持品をまとめ始める。筵を編む手は、もう震えていなかった。ユーフラテスの水は、再び元の流路に戻りつつあるという。しかし、かつての威容を誇った城壁には、今、無数の傷痕が刻まれ、黒く煤けた跡が残っていた。高い門は焼け落ち、石の破片が路上に散乱している。
出発の朝、エルダドは振り返って、この巨大な都を見つめた。朝霧が立ち込める廃墟のような光景。ここはもはや、「神の門」ではなかった。主の御手によって砕かれた、陶器の器の破片にすぎない。
一行の捕囚の民は、荷車を引き、歩き始めた。東から昇る太陽が、彼らの背中を暖かく照らした。西へ、山々を越え、荒野を横切り、約束の地へと向かう長い旅路だ。
風が吹き抜ける。その風は、もはや驕りと暴力の臭気ではなく、乾いた土と、遠い故郷の丘を思わせる、どこか清冽な匂いを運んでくる。エルダドは、ヨナタンと顔を見合わせて、かすかに笑った。主の言葉は真実だ。杯は割れ、民は解放される。そして今、彼らは、ようやく家路につくのだ。




