聖書

ダマスコの光からフィリピへの手紙

エパフロディトスが届けた贈り物に、心が温まった。ローマの監視付きの宿では、羊皮紙が手元にある。窓の外からは、市場の喧騂がかすかに聞こえる。ここで、フィリピの人たちに言葉を紡がねばならぬ。彼らを揺るがすあの「切り傷の人々」のことを思うと、胸が締め付けられる。ああ、もう一度、はっきりさせなくては。自分のすべてを、さらけ出して。

まず、墨をすった。筆の穂先に思いを込めて。

「兄弟たち。最後に、主にあって喜びなさい」

書きながら、自分の若い日々が目の前に広がる。あのエルサレムの石畳の冷たさ、青色の房の触れ合う音、律法学者たちの厳しい目。私はあの道を、盲目的に、そして誇らかに歩んでいた。生まれ八日目での割礼、ベニヤミン族の純粋な血筋、ヘブライ人の中のヘブライ人。熱心さでは、会堂を迫害する者。律法の義においては、非の打ち所がないと自負していた。

筆が止まる。あの日、ダマスコへの道で眩しく裂かれた光を思う。すべての確信が、粉々に砕かれた瞬間だ。それからの年月は、かつての栄光を「損害」と見なす学びの連続だった。まるで蔵の中の宝物を一つ一つ手放すように。いや、むしろ、塵芥とさえ言える。塵芥。そうだ。

「それらを塵芥と見なしています。ただ、キリストを知るというこの知恵の富を得るために」

窓辺に一羽の雀が止まり、きょとんと首をかしげる。私は微かに笑う。この小さな命でさえ、わたしがかつて追い求めた「立派な資格」など何ひとつ持っていない。ただ、天の父が養っておられる。

今、私の義は律法から出るものではない。帳簿に記された行いの損得ではない。神がキリスト・イエスを通して与えてくださる、あの信仰に基づく義だ。それを知り、その復活の力を知り、その苦しみにあずかりたいと願う。まるで圧搾機にかけられるオリーブのように、自身の形が崩され、新しい命の油が絞り出されるように。

道のりはまだ終わっていない。捕らえられているこの身には、はっきりとわかる。到達したわけでも、完全になったわけでもない。ただ、一つことを行う。後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を目指して、目標に向かって走る。

墨が滲みそうになる。思いが込み上げる。

「わたしたちの本国は天にあります」

天に。この粗末な天幕のような体が打ち捨てられるとき、主は、万物をご自身に従わせることのできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自身の栄光の体と同じ形に変えてくださる。その約束が、この鎖の重さを軽くする。この場所の孤独を、憧れに変える。

遠くで鐘の音が鳴る。時刻を知らせる音だ。筆を置き、巻物を見渡す。十分だろうか。彼らに伝わっただろうか。模範として歩む者を見失った時、彼らがこの言葉を思い出し、地上に根を下ろしすぎず、天を見上げて歩き続けてくれるように。

最後に、ふと、あの温かい贈り物の包みに目をやる。フィリピの人たちの真心が、この羊皮紙の言葉に染み込んでいる。共に走ろう。同じ思いで。

「わたしの愛する兄弟たち、このように主においてしっかりと立ちなさい」

そう書き記し、筆を終える。夕暮れの光が、机の上をゆっくりと這っていた。完成した手紙は、ただの文章ではない。ダマスコへの道から続く、この傷つき、愛され、希望に満ちた旅路の、一つの証しなのであった。

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