夕暮れが、バビロンの平野を鈍い銅色に染めていた。窓という窓からは、異国の神々を讃える声や、鍋の音が聞こえてくる。ここは私たちの家ではない。喉の奥に澱のように溜まった郷愁は、もう言葉にもならなかった。父祖の地は遠く、エルサレムの丘は夢の中だけで緑を保っている。
今日もまた、粘土板に刻まれる契約の条文を書き写す仕事を終え、私は狭い宿の部屋で手を休めた。指先には粘土の粉がこびりつき、揮発する油の匂いが部屋に充満していた。そんな時、ふと、故郷から携えてきた一巻の皮が目に入った。擦り切れたその巻物には、預言者エレミヤの言葉が記されていた。蠟燭の灯りを近づけ、ゆっくりと開いてみる。すると、まるで燠火が突如輝きだしたように、言葉が立ち上がってくるのを感じた。
「主はこう言われる。荒れ野にいる民を見いだした者、イスラエルが、いと高き神に出会ったその愛のゆえに、とこしえの愛をもって、わたしはあなたを愛しつづける。わたしはあなたを慈しみつづける」
窓の外から、ラバの蹄の音と商人の叫び声が混ざり合って聞こえてくる。しかし、私の耳には別の声が響いていた。それは、かつてエフライムの山々を渡ってきた風の音、そしてラケルが嘆きながらも、やがて慰められるという約束の声だった。巻物の言葉は、単なる過去の記録ではなく、今ここで、私の皮膚の下を流れる血の温度で脈打っていた。主の愛は、遠い昔の話ではない。この捕囚の地の只中で、なおも続いているのだ。悔い改めよ、と叫ぶ声ではなく、まるで子を腕に抱く母親のように、静かに、しかし確かに引き寄せる慈しみ。
ある安息日、私はユーフラテス河畔に足を運んだ。流れはゆるやかで、水面には柳の枝が触れている。ふと、遠くで羊の群れを追う少年の笛の音が聞こえた。それは、あまりに無邪気で平和な調べだった。すると心に浮かんだ。あの預言の言葉。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。それは、彼らの先祖の手を握り、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない」。かつての契約は石の板に刻まれた。だが、新しい契約は、もっと深い場所へと記されるという。心の板に。内なる場所に。
その瞬間、私は理解したような気がした。この捕囚は滅びではない。むしろ、心という粘土が最も柔らかく、形を受け入れやすいときに、主の指が触れられるための時なのだと。荒れ野のようなこの異国の地で、初めて私たちは、祭儀や神殿の石垣ではなく、自らの内側に真の拠り所を求めざるを得なくなった。主の律法は、もはや外部からの掟ではなく、歩むときに自然と湧き上がる泉となる。そう約束されていた。
月日は流れた。ある朝、宿の主人が興奮した面持ちで駆け込んできた。ペルシャの王が勅令を出したという。エルサレムに帰り、神殿を再建することを許す、と。人々は戸外に飛び出し、抱き合い、泣き叫んだ。しかし私の胸に去来した感情は、単純な狂喜ではなかった。それは、長い間地中で眠っていた種が、ついに柔らかな雨に触れて、ゆっくりと芽を膨らませるような、静かな確信だった。帰路は険しい。ネヘミヤやゼルバベルといった指導者の苦労はこれから始まる。だが、もはや恐れることはない。なぜなら、私たちは単に地理的に故郷に戻るのではないからだ。その旅路そのものが、心に刻まれる新しい契約の履行の一歩だからだ。
ラケルはもう泣かない。エフライムは、悔い改めを繰り返す我が子のように、「あなたはわたしの大切な子、わたしの喜びの子」という声を、遠くからではなく、心のすぐ傍らで聞き始めている。主の慈しみは絶えることがない。夕暮れの銅色は、やがてエルサレムの丘を照らす朝日の金色へと変わる。その日を待ちながら、私たちは歩み続ける。契約は新しい。それは、私たちが書き写す粘土板のようには破れない。



