聖書

闇の中の光

エルサレムの夜は、昼間の喧噪が嘘のように深い静けさに包まれていた。日が暮れてからしばらく経ち、街路にはもはや商人の声も巡礼者の賑わいもない。ただ、ところどころの家々の窓から漏れる柔らかな灯りが、石畳を仄かに照らすだけだ。その一つが、ファリサイ派に属する議員、ニコデモの家の窓であった。彼は書斎で羊皮紙の巻物を前にしていたが、どうにも文字が頭に入らない。昼間のことが、頭から離れなかった。

あの男、ナザレのイエスのことだ。過越の祭りの間、神殿の境内で行われたあの言葉と、その後に起こった数々の出来事。当局者たちの間では、当然のように警戒と批判の声が主流だった。しかし、ニコデモの心には、どうしても割り切れない疑問が幾つも渦巻いていた。あの男の語ることは、単なる煽動とはまるで違う。そこには、律法の文字を超えた、何か根源的な力が宿っているように感じられた。彼は溜息をつき、巻物を巻き直した。こうして深夜に一人で考え込む癖は、若い頃から変わらない。

ふと、彼は決心した。会いに行こう。直接、話を聞こう。だが、公の場ではまずい。仲間の目もある。ならば、夜だ。人影も少ない。そう思いつくと、彼はさっと立ち上がり、外とうを羽織った。暗い路地を歩く足音が、自分だけのもののように響く。目的地は、イエスが滞在していると聞いた、オリーブ山のふもとにある家だった。道中、彼は自分の行動がどれほど異例なものか自覚していた。高名な律法学者が、あの田舎の教師を尋ねるなど。それでも、押し留めることができない何かが心を突き動かした。

家の前に着くと、中から話し声が聞こえた。弟子たちが何人かいるようだ。ニコデモは少し躊躇したが、戸を叩いた。出てきたのは、年の若い弟子だった。ニコデモの身なりを見て、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに中へと招き入れた。奥の質素な部屋で、イエスは一人で座っていた。灯りの下で、その顔は昼間の群衆を前にした時よりも、幾分か疲れているように見えた。しかし、目だけは澄んで、訪ねてきた客人を静かに見つめた。

「先生、」ニコデモは口を開いた。「私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。あなたがなさるこれらのしるしのゆえに、神があなたとともにおられるのでなければ、だれも行うことができないからです。」

彼の言葉は、敬意を込めつつも、遠回しで計算されたものだった。公人の立場からすれば、これが精一杯の歩み寄りだった。イエスは彼を見つめ、その奥にある真の問いを、まるで見抜くかのように、静かに言われた。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

この答えは、ニコデモの予期していたものでは全くなかった。彼は一瞬、言葉に詰まった。「新しく生まれる」? 老人がどうやって母の胎に入って生まれることができましょうか。二度目に生まれることなど、できるはずがない。彼の律法学者としての頭脳が、この比喩を文字通りに捉え、混乱した。

イエスは、彼の困惑を優しく受け止めるように、続けられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。わたしがあなたがたに『新しく生まれなければならない』と言ったことを驚いてはなりません。」

部屋の空気が変わった。外からは、微風が戸をわずかに揺らす音だけが聞こえる。灯りの炎が、ゆらりと揺れた。イエスの言葉は、律法の解釈や議論の次元を、はるかに超えていた。それは、存在そのものの根源についての宣言だった。ニコデモの心の中で、長年積み上げてきた知識や立場が、砂の城のように崩れていく感覚があった。彼は、理解できないことを認めざるを得なかった。「どうして、そのようなことがありえましょうか」と、彼はかすれた声で尋ねた。

すると、イエスの口調に、ほのかな哀れみが滲んだ。「あなたはイスラエルの教師でありながら、これらのことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは知っていることを話し、見たことをあかししています。それなのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受け入れません。もし、わたしが地上のことを話しても信じないなら、天上のことを話したとき、どうして信じるでしょうか。」

その言葉は優しかったが、ニコデモの胸に深く突き刺さった。「イスラエルの教師」という肩書が、今や空しい響きに聞こえた。彼はただ、沈黙して耳を傾けるしかなかった。

イエスは語り続けられた。モーセが荒野で蛇を上げたこと。そして、人の子も上げられなければならないこと。それは、信じる者がことごとく、永遠のいのちを持つためだ、と。夜の帳りが深まる中、その声は温かく、しかし底知れぬ重みを持っていた。

そして、彼は言われた。その言葉は、後の世にまで響き渡ることになるものだった。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

部屋の中に、深い静寂が流れた。ニコデモは、自分がここに座っていることさえ忘れるほどだった。その言葉は、単なる教えではなかった。それは、世界の成り立ち、愛の本質、救いの約束そのものについての告示だった。彼の頭の中で、複雑な律法の条文や、派閥間の論争が、突然、取るに足らない瑣末なことに思えてきた。ここに示されたのは、もっと大きく、根源的な光だった。

やがて、イエスは光と闇について語り始めた。光が世に来ていること。人々がその行いが悪いために光を嫌い、闇を愛していること。しかし、真理を行なう者は光のほうに来るのだ、と。その言葉は、今、この夜、こっそりと訪ねて来たニコデモ自身のあり方にも、静かに問いかけているようだった。

話は終わった。ニコデモは、何と返事をすればよいのかわからなかった。彼の中では、あまりにも多くのものが壊れ、そして新たな種が蒔かれた。彼はゆっくりと立ち上がり、深く一礼した。言葉は出てこなかった。イエスはうなずき、静かに見送った。

外に出ると、夜はまだ深く、空には無数の星が輝いていた。エルサレムへの道を歩きながら、ニコデモは自分が変わってしまったことを感じた。あの家の中での会話は、彼の内側でまだ消化されず、渦巻いていた。しかし、一つだけ確かなことがあった。彼はもう、あの光について、無関心ではいられない。たとえそれが、彼の属する世界からどんなに疎まれるものであっても。

彼は振り返らずに歩き続けた。背後にある家の灯りは、やがて闇に吞まれ、見えなくなった。しかし、彼の胸の中には、消えることのない小さな炎が、静かに灯り始めていた。それは、理解を超えた確信のようなものだった。夜明けはまだ遠い。だが、この闇の中でも、光は確かに存在している。彼はそのことを、もう否定できなかった。

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