聖書

総督フェストゥスとパウロの上訴

カイサリアの港から吹いてくる風には、いつも塩の匂いと、遠くから運ばれてくる異国の香料の気配が混ざっていた。その風が、総督府の高い窓から流れ込み、机の上に広げられた書簡の端をかすかに揺らした。フェストゥスは眉をひそめながら、その書面を眺めていた。赴任して三日目だというのに、すでに厄介な遺産が彼の前に横たわっている。ポンテオ・ピラトから続くこのユダヤ属州の総督職は、名誉である以上に、気の遠くなるような煩わしさの連続だと、彼は思い知らされつつあった。

「彼はまだあの地下室にいるのか?」

「はい、総督閣下。前総督ペリクスの時から、二年近くになります」

側近の将校が平板な声で答えた。フェストゥスはため息をついた。パウロという名のその男——ユダヤ人たちは「ナザレの分派の首謀者」と呼び、激しくその処刑を求めてきた。前任者のペリクスは、あいまいな態度でこの問題を先送りにし、ついに任を解かれてローマに召還された。残されたのは、感情的なユダヤ人指導者たちと、ローマ市民権を持つ謎の囚人、そして未解決のまま積み上がった書簡の山だった。

三日後、総督府の広間は重苦しい熱気に包まれていた。フェストゥスは玉座につき、威儀を正したユダヤの祭司長たちと、エルサレムから上ってきた有力者たちの顔をひとつひとつ見渡した。彼らの目には、ねちねちとした敵意と、どこか焦りの色が浮かんでいた。彼らは、新総督が何も知らないはずだ、と高を括っている。この件を早期に決着させ、エルサレムに連行して闇に葬ることを望んでいる。

「パウロという者について訴えがあると聞いた」

フェストゥスの声が石造りの壁に反響した。すると、たちまち老人のひとりが前に進み出た。その声は、練習したように滑らかでありながら、底に毒を含んでいた。

「総督閣下。この男は疫病のような者です。至る所でユダヤ人の中に騒動を引き起こし、ナザレ人の一派の首領となっています。さらに、神殿をも汚そうとしました。我々は彼を捕らえましたが……前任のペリクス閣下が、詳細な審理を望まれ、今日まで延び延びとなってしまったのです」

周りから低いうなずきが起こる。フェストゥスは肘掛けに手を置き、じっと老人を見つめた。あまりに紋切り型の告発だ。具体的な証拠もなければ、ローマ法に照らして明確な罪状も見えない。これが、彼らが二年近くも執拗に追求する理由か?

「彼はカイサリアにいる。そして、私自身が彼を裁くつもりだ」フェストゥスはゆっくりと言った。「諸君もここに留まるがよい。数日中に、裁きの場を設けよう」

彼らは目配せを交わした。その表情には、不満と安堵が奇妙に混ざり合っていた。

その翌日、広間のしつらえは変わった。フェストゥスの座る玉座の前に、囚人を立たせるための空間が設けられ、左右には衛兵が岩のように並んだ。パウロが連れ出されてきた時、フェストゥスは思わず体を前に乗り出した。彼の想像していた人物像とは違っていた。鎖につながれ、粗末な衣服をまとっているが、背筋は伸び、目は驚くほど澄んでいた。長い牢獄生活の疲れは確かに顔に刻まれているが、その内側から滲み出るような落ち着きがあった。彼は、待ち構えるユダヤ人指導者たちの一団を一瞥するだけで、視線を総督にしっかりと向けた。

「パウロ。お前について多くの訴えがある。何か弁明することはないか?」

パウロはゆっくりと口を開いた。その声は、広間の隅々まで届くほどよく響き、かつ乱れがなかった。

「総督閣下。私は、ユダヤの法にも、神殿に対しても、またカエサルに対しても、何ら罪を犯してはいないと申し上げます」

彼の言葉に遮るように、ユダヤ人たちの席から怒声が上がった。非難の声が幾つも重なり、やがて収拾のつかない罵倒の合唱と化した。フェストゥスは眉をひそめ、衛兵に制圧を命じようとした瞬間である。

「閣下!」

パウロの声が、雑音を一刀両断した。

「私はローマの市民です。ローマ法に基づく正当な裁きを受ける権利があります。ユダヤ人たちが私に不利な証言をしていることは承知しています。しかし、あなたもよくご存知でしょう。彼らに対して、私は何ら不正を働いていないということを。もし私に死に値する罪があるなら、死を拒みません。しかし、彼らの訴えることに一つでも真実がなければ、誰も彼らに私を引き渡すことはできません」

一瞬、広間が水を打ったように静まり返った。パウロの目は、フェストゥスをじっと見据えていた。

「……私は、カエサルに上訴します」

その言葉が、空気そのものを凍りつかせた。カエサルへの上訴——ローマ市民としての最後の、そして絶対的な権利である。一度口にされれば、総督でさえそれを覆すことはできない。フェストゥスの脳裏を、複雑な思いが駆け巡った。困惑。わずかな安堵。そして、この厄介事が、ついに自分から離れていくという実感。

「……カエサルに上訴したか」フェストゥスは低く呟くように言った。「では、汝はカエサルのもとへ行くだろう」

ユダヤ人たちの間に、失望と怒りの波が広がった。彼らの策略は、またしても水泡に帰した。パウロは衛兵に連れられ、再び地下室へと消えていった。その背中には、もはやこの地での裁きを一切拒否した者の、ある種の威厳さえ漂っていた。

数日後、総督府に一人の客が訪れた。アグリッパ王と、その姉ベルニケである。彼らは表向きは新任の総督への挨拶に来たが、内心はこの地方で話題となっている「パウロ事件」への強い好奇心を隠していなかった。夕食の席で、アグリッパはそっと口を開いた。

「あの囚人、パウロという者の話を聞いた。彼について、是非とも話を聞いてみたいと思っているのだが」

フェストゥスはほっとしたように応じた。これは願ってもない機会だった。ユダヤ人の習慣と信仰に詳しい王の助言は、この不可解な事件をカエサルに報告する上で、何よりの材料になる。

「よろしい。では明日、公開の場で彼の話を聞くことにしよう」

翌日、総督府の大広間は、前回とはまた違う緊張感に包まれた。王と王女が高い席に着き、千人隊長たちや、市の重鎮たちがずらりと並んだ。それはもはや裁判ではなく、一種の聴聞会という趣だった。パウロが連れ出されると、アグリッパ王は興味深そうにその姿を見下ろした。

「パウロ、お前に話をさせてやることを許そう」

パウロは鎖の音を軽く鳴らしながら、静かに口を開いた。しかし、その話は単なる弁明ではなかった。それは、かつて熱心なファリサイ派であった自分が、どのようにしてダマスコ途上で天からの光に出会い、その声を聞き、異邦人への使徒としての使命を与えられたかという、驚くべき証言だった。彼は、メシアの死と復活、そしてそれがもたらす罪の赦しについて語り、その声は次第に熱を帯びていった。広間には、彼の言葉だけが流れるようなリズムで響き渡った。

フェストゥスは聞きながら、内心で混乱していた。これはもはや、法律的な問題を超えている。復活だの、メシアだの、まるで狂人の戯言ではないか。ついに彼は我慢できず、大声で遮った。

「パウロ、お前は気が狂っている!多くの学問が、お前を狂わせてしまった!」

するとパウロは、静かに、しかし確固として言い返した。

「フェストゥス閣下。私は狂ってなどいません。私は真実を、また道理にかなったことを語っているのです。これらの事は隠れて行われたわけではありません。アグリッパ王は、このことをよくご存知でしょう。私は王がご存知だと信じております。預言者たちが語ったことは、一つとして成就しないものはなかったと、私は確信しています」

そして彼は、王の方をしっかりと見つめ、問いかけるように言った。

「アグリッパ王。あなたは預言者たちを信じておられますか? 私は、あなたが信じておられることを知っています」

アグリッパ王は、わずかに当惑したようにパウロを見た。その問いは、公的な場での儀礼を越えて、個人の信仰の核心を衝くものだった。しばしの沈黙の後、王はやや茶化すように言った。

「お前は、わずかな言葉で、私をキリスト者にさせようというのか」

パウロは深く息を吸った。その目は、王だけでなく、広間にいるすべての者を包み込むように優しかった。

「言葉が多かろうと少なかろうと、私は神に祈ります。この場にいるすべての方が、私のようにキリスト者になりますように。ただし、この鎖は別ですが」

彼の言葉に、広間には複雑な空気が流れた。嘲笑う者、当惑する者、真剣に考える者。アグリッパ王はベルニケと側近たちと小声で話し合い、やがてフェストゥスの方に向き直った。

「この男は、もしカエサルに上訴していなければ、釈放されてもよかったのだろう」

その言葉は、フェストゥスが内心ずっと感じていたことを、裏書きするものだった。彼には、ローマ法に照らしてこの男に死や投獄に値する罪があるとは思えない。しかし、もはじ手遅れだ。カエサルへの上訴は、逆転できない歯車を回し始めていた。

やがて人々が引き上げ、広間が再び静寂に戻った時、フェストゥスはひとり机に向かった。彼は報告書を書き始めなければならない。皇帝ネロに対して、この不可解な囚人と、彼を取り巻くユダヤ人の諍いについて。書きながら、彼の頭にはパウロの澄んだ眼差しがちらついた。あの男は、鎖につながれた囚人の身でありながら、自分たち全員を、はるか高い場所から見下ろしているような、そんな不可思議な威厳を持っていた。フェストゥスは羽根ペンを置き、窓の外を見やった。カイサリアの港には、ローマへ向かう船がいつでも用意されていた。その船に乗せられる日まで、パウロはあの地下室で、一体何を考えているのだろうか。風が再び窓から吹き込み、机の上の紙を揺らした。彼は、ほんのわずかだが、この問題が単なる属州の煩わしい事務を超える何かであるような、そんな気がしてならなかった。

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