その日も、書記官ヨセフは、午後の日差しが斜めに差し込む部屋で、羊皮紙と格闘していた。硯の墨は、乾きかけていた。彼は唾をつけた指でそれをなぞり、なんとか筆を走らせ続けた。エフェソから始まった七つの教会への書き物も、これで三つ目だ。手首が疼く。腰が重い。そんな身体的な倦怠感が、今、彼が書き写している言葉の重さと奇妙に共振していた。
「サルデスにある教会の使者に書き送れ。」
彼の筆は止まった。窓の外では、港から聞こえてくる船の梶子の音や、商人たちの喧噪が、かすかに立ち上がっては消えた。サルデス。彼はかつて、交易の途上でその町を通りかかったことがある。金色に輝くと言われたパクトロス川の流れ、かつてのリディア王国の栄華の残影を宿す、少し傲慢で、そしてどこか虚ろな町の印象がよみがえる。教会もまた、その町の空気に染まっていたのだろうか。
筆を進める。「『神の七つの霊、そして七つの星を持つ方がこう言われる。わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは生きているという名を持ってはいるが、実は死んでいる。』」
「死んでいる」。その言葉が、羊皮紙の上で異様な重みを持った。生きていると自称し、あるいは周囲からそう見られていながら、内実は死。ヨセフは、ふと自分自身の祈りを思い返した。形ばかりの、習慣のような祈り。息をつぐような、切実な叫びは、いつから失われていたのか。インクが滲みそうになるのを、彼は慌てて筆を上げた。
「『目を覚ませ。そして、死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前で全うされているとは見ていない。』」
「目を覚ませ」。それは優しい勧めというより、敵襲に際しての、凄まじい叱咤の声のようにヨセフには響いた。彼は背筋を伸ばした。部屋の空気が、さっきまでとは違って、緊張を帯びて感じられる。書き写すという行為が、単なる事務作業から、自分自身への宣告を聞く行為へと変容していくのを、彼は感じずにはいられなかった。
「『だから、どのようにして受けたのか、また聞いたのかを思い出し、それを守り、悔い改めよ。』」
思い出せ。かつて初めて福音を聞いた時の、胸のうちが火のように燃えたあの感覚を。ペンテコステの日、様々な言葉で神の偉大なわざが語られた、あの圧倒的な喜びを。ヨセフは目を閉じた。彼の信仰は、いつの間にか、羊皮紙とインクと、正確な筆写と、時に解釈を巡る議論へと収縮していた。命の源泉から離れた、浅くよどんだ水たまりのようではなかったか。
しかし、次の言葉は、突如として温かな光の帯のように流れ込んできた。「『しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。』」ほんのわずかな「幾人か」。だが、その存在が、全体の滅びを宣告された共同体に、かすかな、しかし確かな希望の糸を垂らしていた。ヨセフは、自分が知っている、どこかの町の、名もない信仰者たちの顔を思い浮かべた。彼らは、この「幾人か」の中に数えられているかもしれない。その思いが、彼の心にほのかな慰めをもたらした。
彼は深呼吸し、次の教会へと筆を進めた。
「『フィラデルフィアにある教会の使者に書き送れ。』」
今度は、彼の口元に自然と微笑が浮かんだ。フィラデルフィア。兄弟愛の町。彼自身、そこの信徒たちから受けた親切をいくつも覚えている。小さく、力に乏しい教会だった。しかし、そこには特別な約束が与えられていた。
「『聖なる者、真実な者、ダビデの鍵を持つ者、彼が開けばだれも閉じる者がなく、閉じればだれも開く者がない、その方がこう言われる。』」
鍵。開く者、閉じる者。ヨセフは、かつてイエスがペトロに言われた「天の国の鍵」の言葉を思い出した。ここでは、それが「ダビデの鍵」として、全てを支配する主権の象徴として示されている。そして、その方が、小さい力しか持たないフィラデルフィアの教会に言われるのだ。
「『見よ、わたしは、あなたの前に開かれた門を与えた。だれもそれを閉じることはできない。あなたは少しばかりの力を持っており、またわたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかった。』」
開かれた門。それは、迫害と困難の中にあっても、決して閉ざされることのない、宣教と救いへの道を示している。彼らは「少しばかりの力」しか持っていない。それは自覚していただろう。それでも、彼らは「わたしの言葉を守り」、告白を捨てなかった。その確固とした、しかし決して傲慢ではない忠実さが、この特別な約束を引き出している。ヨセフは、自分の力のなさを嘆くよりも、この「少しばかりの力」を忠実に用いることの大切さを、身に染みて感じた。
約束は続く。「『見よ、サタンの会衆に属する者、すなわちユダヤ人と言い張りながら実はそうでない者、彼らがうそつきであることを、わたしは彼らに知らせよう。見よ、彼らが来て、あなたの足もとにひれ伏し、わたしがあなたを愛したことを知らせるであろう。』」この言葉には、激しい裁きの響きと、それと表裏一体の深い慰めが込められていた。苦しめていた者たちの誤りが明らかになり、彼ら自身がその事実を認める日が来る。それは、不当な苦しみを受けた者たちにとって、どんなに大きな救済であろうか。
そして、最後の約束が心に響いた。「『あなたが忍耐の言葉を守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時から、あなたを守ろう。』」全世界を襲う試練の「時」から、守られる。それは、物理的な無傷を約束するのではなく、その試練の只中にあっても、信仰が決して奪われないこと、神の臨在の中に確かに留められることの約束だと、ヨセフは理解した。彼の胸が熱くなった。
安息が訪れる間もなく、最後の教会への言葉が待っていた。これが、最も胸が痛むものだと、彼は前々から聞いていた。
「『ラオデキヤにある教会の使者に書き送れ。』」
ラオデキヤ。豊かな商業都市。医療と羊毛と金融で栄える、その町の教会は、物質的には最も恵まれていたかもしれない。しかし、書き出される言葉は、七つの中で最も厳しく、赤裸々だった。
「『アーメンである方、忠実な真実の証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。』」根源(アルケー)。全ての被造物の始源であるお方が、今、ある一つの教会の「根源」たる霊的状態を、告発される。
「『あなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、あなたはなまぬるく、熱くもなく冷たくもないからである。わたしはあなたを、口から吐き出そう。』」
「なまぬるく」。ヨセフは、この比喩の生々しさに思わず顔を上げた。彼は、よく冷えた水も、沸き立つ湯も、それぞれに価値がある。だが、ぬるま湯は、飲んでも、浴びても、何の感覚も与えず、ただ不快なだけだ。信仰の熱意も冷めた放棄も、ある意味では「本物」の反応である。しかし、信仰生活を、心地よい習慣や、社会的身分の一部とし、熱い献身も冷たい反抗もない、無難で無気力な中間状態に置くこと。それこそが、最も唾棄すべき状態であると、この言葉は宣告する。
「口から吐き出そう」。それは、関係の全面的、最終的な拒絶を意味する。ヨセフは、自分の信仰が「なまぬるい」ものに成り下がっていないか、鋭い不安が胸を刺した。彼は、ラオデキヤの信徒たちが、自分たちの豊かさについて語るのを何度か耳にしたことがある。「わたしは富んでおり、豊かになった。ほしいものは何一つない」と。その自己満足が、実は悲惨で、哀れで、貧しく、裸で、盲目であることの自覚を奪っているのだ。
「『わたしはあなたに勧める。富んでいる者になるために、わたしから火で精錬された金を買いなさい。また、あなたの裸の恥が見えないために白い衣を買いなさい。また、見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい。』」
ここで語られる「買う」行為。それは、自分自身の現状の「富み」を捨て、キリストのみもとに来て、彼から真の富を受け取ることを意味する。自分の労苦で得たものではなく、彼の恵みによって与えられる、火を通った純金のような信仰、罪を覆う白い衣、真実を見る目。それらはすべて、主の側から提示されるのであり、それを「買う」とは、つまり、自らの貧しさを認め、彼にすべてを求める決断に他ならない。
そして、その呼びかけの根拠が、これ以上ないほどの親密さをもって語られる。「『わたしは、愛する者を戒め、鍛えるのである。だから、熱心になって、悔い改めよ。』」この「愛する者」という呼びかけが、先の厳しい宣告を、決して見捨ての言葉ではなく、回復への切なる招きへと変えている。神の鍛錬は、無関心の証ではなく、愛の証なのだ。
最後の言葉が、ヨセフの心に深く沈んでいった。「『見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは中に入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をするであろう。』」
戸口に立たれ、内側から開かれるのを待っておられる方。そのお方は、威圧的に扉を破るのではなく、静かに、しかし執拗に、叩き続けておられる。食事を共にする。それは、完全な和解と親密な交わりの約束だ。全ては、内側にいる者の、ほんの小さな意志の行為――「戸を開ける」こと――にかかっている。
ヨセフは筆を置いた。手は震えていた。七つの星を持つ方の声が、部屋の中に、まだ響き渡っているようだった。それは、遠いアジアの教会へのメッセージであると同時に、この羊皮紙を前にうつむく、一介の書記官の魂への、直接の呼びかけでもあった。
窓の外では、日がすっかり傾き、港の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。彼は、今しがた書き終えた言葉をもう一度、静かに、声に出して読み始めた。今回は、書き写すためではなく、自分自身の魂に聞かせるために。祈りが、彼の心の内側から、長い時を経て、新しいかたちで湧き上がってくるのを感じながら。




