夜の気配がナイルの岸に沈む頃、モーセは再び王宮の重い石の扉をくぐった。空気は香料と、かすかな腐敗の臭いが混じり合っていた。松明の炎が壁にゆらめき、巨大な柱の影を不気味に揺らす。彼の足取りには、もう交渉者のような柔らかさはなかった。砂漠の乾いた風で焼かれたその顔は、まるで岩のように固く、目だけが、深い井戸の底から見上げるように、静かに輝いていた。
ファラオは玉座に凭れていた。腕には金の腕輪、首にはラピスラズリとトルコ石の首飾り。しかしその威光も、今この男の前では色褪せて見える。側に立つ廷臣たちの息づかいが、緊張で浅くなっているのが分かった。
「繰り返すのか、羊飼いよ。」
王の声には、もはや怒りさえなかった。疲れと、わずかな焦燥がにじむ。
モーセは答えず、暫し沈黙した。遠くで、ナイル川を行く船の櫂の音がかすかに聞こえる。その静けさこそが、却って場を圧した。
「エジプトの王よ。」
声は低く、しかし宮廷の隅々にまで響くようだった。
「主はこう言われる。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。すると、エジプトの地にいるすべての初子は死ぬ。玉座に座すファラオの初子から、ひき臼のうしろにいるはしための初子まで。すべての家の長子が。また、家畜の初子も。』」
言葉が空中に残る。松明の火がぱちりと弾けた。
「エジプト全土に、あなたがたの先祖がかつて聞いたことも、また未来に聞くこともないような、大きな叫びが起こるだろう。しかし、イスラエルの子らに対しては、人も獣も、犬でさえその舌を鳴らすこともない。主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るであろう。」
廷臣の一人が、思わず咽を鳴らした。その音が、石造りの広間で異常に大きく反響した。
モーセの言葉は続く。
「そして、あなたのすべての家臣たちは、わたしのもとに下って来て、『あなたも、あなたに従う民もみな、出て行け』とひれ伏して言うであろう。その後、わたしは出て行く。」
彼はゆっくりと踵を返した。革のサンダルが石の床を擦る音だけが響く。扉の前で、彼は振り返った。炎がその横顔を赤く照らした。
「そして、あなたはもう二度と、私の顔を見ることはない。」
モーセが去った後の宮廷には、重苦しい沈黙だけが残された。ファラオは玉座の肘掛けを握りしめていた。指の関節が白くなっている。これまで幾度となく、この男は災いを宣告し、それは現実のものとなった。蛙、虱、雹、暗闇…。しかし今、彼が言ったことは、もはや災いの域を超えていた。それは裁きだ。根源的な、避けようのない剥奪。
「出て行け。」
王は囁くように言ったが、誰にも聞こえなかった。彼の脳裏には、最愛の王子の顔が浮かんだ。まだ十歳にも満たない、柔らかな頬を持つ少年の。そして、牛舎で生まれたばかりの、目が潤んだ子牛の姿も。
その頃、ゴシェンの地では、ヘブライ人の家族たちが、奇妙な準備を始めていた。モーセの言葉に従い、彼らはエジプト人から金銀の飾りや衣服を求めていた。人々は不思議そうに、時には嘲笑いながらも、それらを手渡した。長い奴隷の歳月が、彼らに奇妙な優越感を植え付けていた。しかし、何かが違う。今回は、ただの借り物ではない。懇願でもない。それは、一種の「要求」だった。そしてエジプト人たちは、理由も分からず、その威圧感に押されるように、貴重な品を差し出した。
一人の老婆が、皺だらけの手で銀の腕輪をヘブライの若い女に渡しながら、ぶつぶつ言った。
「お前たちの神は、一体何をなさるおつもりなんだい。」
若い女は答えなかった。彼女自身も、全てを理解していたわけではない。ただ、モーセの目に宿っていた、あの決然とした光だけを信じていた。それは、四十年前、彼がエジプト人を打ち殺して逃げた時の、あの血の気の失せた目とは全く違う。荒野で会った何かが、彼を変えた。いや、彼の中に昔から眠っていた何かを、呼び覚ました。
モーセは、宿営の端にある自分の天幕に戻った。アロンが中で待っていた。弟の顔は心配に曇っている。
「兄上、王は…」
「何も変わらない。」
モーセは簡潔に答えた。彼は敷物の上に腰を下ろし、顔を両手で覆った。突然、全身の力が抜けるような虚脱感が襲った。宣告は終わった。しかしその重みが、今、彼自身の肩にのしかかってくる。あの言葉を口にしている間、彼は単なる「器」でしかなかった。だが今、人間モーセが戻ってきた。彼は、真夜中に起こることを想像せずにはいられなかった。隣家から聞こえるだろう慟哭。母親の絶叫。エジプトの友と呼べる者たちの苦悶。彼は目を閉じた。
「主よ。」
声にならない声が、心の底から湧き上がる。
アロンは黙って兄の横に座り、羊皮の水筒を差し出した。モーセはそれを受け、一口飲んだ。水は温く、砂の味がした。
やがて外では、羊の群れを囲む少年たちの歌声が聞こえてきた。彼らは何も知らない。明日の恐ろしさも、自由の約束も。ただ、夕焼けがゴシェンの丘を茜色に染める美しさだけを歌っている。
モーセは顔を上げた。
「民に言いなさい。家ごとに雄羊を選び、用意をさせなさい。…この月を、あなたがたの月の始まりとせよ。一年の最初の月とせよ。」
その言葉は、アロンを通して、そして長老たちを通して、家から家へ、家族から家族へと、静かに伝えられていった。それは単なる指示ではなく、新しい時代の始まりを告げる宣言だった。彼らは、ただ出て行くだけではない。全く新しい暦に従って生きる民として、歩み始めるのだ。
エジプトの夜は更けていった。北の空に、ラーが乗る太陽の舟を導く星々が微かに光る。やがて、それらも闇に飲み込まれ、息を殺したような真の暗闇が国を覆う時が来る。真夜中ごろ。
モーセは天幕の入口から外を眺めた。遠く、王宮の灯りがかすかに揺らめいている。彼は最後の宣告を、あの頑なな心に届けるために、言葉を尽くした。もう為すべきことは、全て為した。後は、主のみ業を待つだけだ。
そして彼は思った。この裁きの後、エジプトの地を離れる時、彼らが背負うのは、ただ金銀の品々だけではない。この夜の記憶も、そして、抗うことのできなかったある真理も、共に背負って行くのだと。自由とは、決して軽い荷ではない。贖いの代価は、常に誰かが払う。その重さを知ることこそが、約束の地への旅の、最初の一歩なのだと。
深い闇が、ナイルの流れも、砂漠も、人の心さえも、一つに包み込んでいく。




