港は朝もやに霞んでいた。乳白色の靄が、杉材の船体や、積まれた香木の荷、騒がしい荷役人夫の輪郭を柔らかく溶かしていた。シドンから来た年配の船長は、肘を艤装の欄干に乗せ、潮の香り混じりの風に顔を向けていた。彼の目には、このティルスの港が七十年来、同じまばゆい活力に満ちているように映った。フェニキアの誇り。諸国をつなぐ海の臍。彼は若い商人に、そう言って聞かせたことがある。その商人は今、甲板でエジプト産の麻布の検品に余念がなかった。
「全ての国々の商人が、お前を賛美する」
老船長は呟いた。誰に言うでもない。それはこの町の空気に溶け込んだ確信だった。キティムからの錫、エデンからの緋色の布、アラビアの羊や山羊。銀、鉄、肉桂、菖蒲。あらゆる富がこの波止場に流れ込み、そしてより多くの富となって流れ出て行く。宮殿はレバノンの杉で飾られ、路地には諸国の言葉が飛び交った。人々は、この石と海でできた城塞は永遠だと思っていた。いや、思うことすらせず、ただその繁栄を呼吸のように当たり前のものとしていた。
預言の言葉が最初に届いたのは、そんなある夕暮れだった。港から丘の上の市街へと続く石段を、見知らぬ男が上がってきた。彼の衣服は埃にまみれ、目は遠くの何か、あるいは遠くの無きものを見つめていた。彼は広場の片隅に立ち、叫んだわけでもなく、ただ低く、しかし鋭い声で言葉を紡いだ。
「シドンよ、黙せ。海の城よ、お前は産みの苦しみにあったように慟哭せよ。ツロは忘れられ、荒れ果て、シホルにまで及ぶ海沿いの国々からの収穫も、もはやお前にはない」
通りかかった商人の一人が嘲笑った。「ツロが荒れ果てる? そちらの頭が荒れ果てているのではあるまいか」 周囲から笑い声が起こった。預言者は振り向きもせず、言葉を続けた。「エジプトも、この知らせに苦しみ、慟哭するだろう。ツロの破滅を聞けば、タルシシュの人々も震えおののく」
その夜、老船長は宿で、その話を若い商人から聞いた。若者は酒をすすりながら、滑稽な物語として語った。しかし老船長の胸に、微かな、冷たい棘が刺さった。彼は長い生涯で、幾度かそういう声を聞いたことがある。それは、市場の喧噪や船具の軋みとは全く異質な、深淵から湧き上がるような響きだった。
月日は、何も変わらぬ日常の中を流れた。船は出て、船は帰り、荷は積まれ、金は蓄えられた。だが、老船長の耳には、時折、違和感がまとわりついた。例えば、キプロスから戻った船頭が、東の空の気配が重いと呟いた時。あるいは、エジプトへの定期船の出航が、理由もなく遅れた時。町の笑い声の下に、かすかな亀裂が走っているような気がした。繁栄は厚い錦の衣だった。だがその下で、何かが腐り始めている。彼はそんな思いを、誰にも口にできなかった。
そして、嵐が来た。
それは、文字通りの暴風ではなかった。最初は、地平線に現れた一本の煙だった。交易路を襲った海賊の噂。やがて、その煙は幾筋にも増え、やがて巨大な、戦争の雲となってティルスに迫った。強大な王の軍隊が、海の道を封鎖し、陸からは破城槌が迫る。町は、自分たちが島であり、岩であり、難攻不落であると信じていた。城壁は高く、櫓は堅固だった。
七十日。町は包囲された。七十日間、老船長は港の見張り台から、変容していく海を見つめた。かつては商船で埋め尽くされていた海路が、やがて軍船の黒い影で覆われていく。積荷は武器に変わり、商人の駆け引きは喊声に変わった。砲石が空を切り、城壁に火花を散らす。彼は、若い商人が、甲冑もまともにつけずに石弓を持って走っていくのを見た。その顔は、エジプト麻布を値切る時とは全く別人の、必死の形相をしていた。
滅びは、少しずつ、しかし確実に訪れた。食料の不足。疫病の発生。内部からの諍い。そしてついに、南の城門が破られた日、町全体からあがる唸りのような叫びが、港まで届いた。老船長は、最後の一隻に飛び乗った。それは小舟に近い漁船だった。艤装を解くロープを切る時、彼は振り返った。炎上する宮殿の影が、海面にゆがんで映っていた。彼が七十年来、呼吸してきたあの活気、賑わい、確信。全てが、赤黒い炎に包まれ、崩れ落ちていく。海風が、灰と悲鳴の匂いを運んできた。
「お前はもう決して栄えることはない」
預言者の声が、突然、彼の記憶の中で鮮明によみがえった。あの広場の片隅で聞いた、低く鋭い声。それは、この瞬間のためにあった言葉だった。船は沖へと漕ぎ出した。背後では、諸国の商人たちが築いた夢の城が、音を立てて潰れていった。
それから、長い年月が過ぎた。
老船長は、もう老人を通り越していた。彼は故郷シドンの、さびれた漁村の端で細々と暮らしていた。ティルスの話は、今では遠い悪夢のように語られる。かつての交易路はすっかり様変わりし、別の勢力が海を支配していた。
ある夕方、彼は浜辺で、遠くから来た旅の者と話した。その男は、様々な町の噂を話すうちに、ふと口にした。
「ところで、ツロの話をご存じですか? あの廃墟に、また人が戻り始めているそうですよ。細々とですが、港の修復も始まったとか」
老人は、目を瞠ったわけでも、声をあげたわけでもない。ただ、ゆっくりと、その言葉を胸の中に落としていった。そして、遠く水平線を染める夕焼けを見つめた。海は、七十年前と変わらず、深い藍色をたたえている。
「七十年の後、主はツロを再び訪れ、彼女は再び遊女の稼ぎをもとに戻り、地上のあらゆる国々と売春を行うようになる」
あの預言は、裁きだけでは終わらなかった。忘れ去られた言葉の続きが、潮の満ち引きのように、今、彼の心に戻ってくる。絶望は決して最終章ではない。神の計らいは、破壊の先に、復旧の時を置く。それは、かつてのような驕りに満ちた繁栄ではなく、何か別の、もっと儚く、しかし確かなものとして。
風がやんできた。浜辺に打ち寄せる波の音だけが響く。老人はゆっくりと立ち上がり、小屋へと歩き始めた。足元に、小さな貝殻が転がっていた。かつてティルスの市場で見た、真珠のように光る貝を、彼は思い出した。すべてが失われても、海はまた、何かを打ち上げる。闇の後には、必ず微かな光がやってくる。彼は、そのことを、骨の髄まで知った気がした。そして、その知恵は、言葉にならない深い安らぎとして、彼の残された日々を静かに包んでいった。




