聖書

荒野の洗礼と神の国の始まり

そのころ、荒野に一人の男が現れた。ヨハネという名であった。彼は人の住まぬ荒れ地に身を置き、らくだの毛衣をまとい、腰には皮の帯を締めていた。食べ物はいなごと野蜜だけ。彼の姿は、かつての預言者たちを彷彿とさせたが、彼自身はそう呼ばれることを好まなかった。ただ、荒れ野で声はあげる。「悔い改めよ。天の国は近づいた」

彼はヨルダン川のほとりに立った。水は粘土色に濁り、岸辺の岩は昼の太陽で温もりを帯びていた。人々はエルサレムやユダヤの全地方から、続々と彼のもとにやって来た。身分も様々だった。徴税人、兵士、農民、祭司の子弟も混じっている。彼らはヨハネの前に進み出ると、ざらざらとした砂地に膝をつき、これまでの生き方を打ち明けた。ヨハネはひとりひとりを見据え、鋭いがどこか哀れみを含んだ眼差しを向けた。そして、彼らを水の中へと導いた。沈み、また立ち上がる。その行為そのものが、古い自分に死に、新しく生まれ出るしるしであった。

ある日、群衆の中に、ほかの者とはどこか違う風貌の男がいた。ナザレのイエスという。三十歳前後だろうか。手には労働の痕が刻まれ、しかし眼は驚くほど静かで深かった。ヨハネは彼を見た瞬間、背筋に走る衝撃を覚えた。かつてない威厁が、その男の周囲に満ちているように感じられた。

イエスは順番を待ち、やがてヨハネの前に立った。ヨハネはためらった。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られるのですか」 イエスは少し微笑んだように見え、静かに言った。「今はそうさせてもらいたい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことなのだから」

ヨハネは言葉を失った。彼は従った。イエスは水に入り、ヨハネの手で背中を支えられて、ゆっくりと水の中へ沈んでいった。川の冷たさ、流れの抵抗。その瞬間、天が裂けた。

それは実際に目に見える現象だった。雲の層がちぎれ、一条の光が降り注ぐ。そして、鳩のような形をした霊が、その光の中から舞い降りて、イエスの肩に留まるのを、ヨハネは見た。同時に、声が聞こえた。それは心の内に響くというよりも、天地を揺るがすような、しかし驚くほど優しい響きであった。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

群衆の誰もがそれを見たわけではなかった。ただ、空気が震え、鳥の群れが一斉に飛び立つような、不思議な緊張が走っただけである。しかしヨハネは知った。約束の方が、今、ここに立っている。

その後、イエスはすぐに荒野へと追いやられるように去っていった。荒れ野はヨハネがいた場所よりもさらに苛烈で、岩だらけの不毛な地が続いていた。四十日間、彼はそこに留まった。昼は灼熱の太陽が岩を焼き、夜は急激に冷え込んで霜が降りた。獣たちの気配が近づき、また遠のく。彼は何も食べなかった。飢えと渇きが肉体を蝕む中で、ひたすら父との対話を続けた。

その終わり頃、見知らぬ者が近づいてきた。サタンであった。その姿はさすがに、角や尾を持つ荒唐無稽な形ではなかった。むしろ、親しげな顔をした旅人か、あるいは熱心な議論を好む学者のように見えた。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じてみよ。こんなに空腹なのに」

イエスは乾ききった唇を動かした。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」

サタンは場所を変え、エルサレムの神殿の屋根の端に彼を立たせた。下は舗石の広場で、人々が豆粒のように見える。「飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と聖書にあるではないか」

イエスは眼下の風景を見下ろし、風が衣を翻した。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」

最後に、サタンは非常に高い山へイエスを連れて行った。そこから見渡す限り、すべての国々の栄華と富が霞んで見えた。「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」

イエスは顔を背けた。目には疲労の色が濃かったが、瞳の輝きは曇っていなかった。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ』と書いてある」

サタンは去った。すると、天使たちが近づき、彼に仕えた。彼らは差し出した水筒から冷たい水を飲ませ、柔らかい布で汗を拭った。イエスは初めて、深い安息の息をついた。

ガリラヤへ帰る道のりは長かった。ヨルダン川の流域を通り、なじみのある丘陵が見えてくる。その頃、ヨハネはヘロデ王によって捕らえられたという知らせが流れていた。イエスはその話を聞いて、しばらく黙っていた。そして、いよいよ時が来たことを悟った。

ガリラヤの村々を歩きながら、彼は神の国の福音を宣べ伝え始めた。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

ある日、ガリラヤ湖の畔を歩いていると、網を打っている二人の男を見かけた。シモンとその兄弟アンデレである。彼らは網を洗い、繕い、また湖に投げ入れる。魚の鱗が陽に光り、潮の香りが漂う。イエスは近づき、声をかけた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」

二人は網を見つめ、互いの顔を見交わした。何の前触れもないこの呼びかけに、理屈では理解できなかった。しかし、その言葉には、網を捨てざるを得ないほどの重みと、不思議な魅力があった。シモンはゆっくりと網を砂の上に置いた。アンデレもそれに倣った。足跡を残して、彼らはイエスの後についていった。

少し歩くと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが舟の中で網の手入れをしていた。父親は脇で繕いを手伝っている。イエスは同じように彼らをお呼びになった。二人はすぐに舟から上がり、父親に別れの挨拧もそこそこに、イエスに従った。老いたゼベダイは呆然と彼らの背中を見送り、手に持った麻糸がふわりと風に揺れた。

安息日、イエスは弟子たちを連れてカファルナウムの会堂に入った。会堂は石造りでひんやりとしており、わずかな窓から差し込む光の中を塵が舞っていた。律法の朗読が終わり、指導者たちがイエスに教えを説くように促した。彼が語り始めると、人々は息をのんだ。それは、律法学者たちのような、権威への引用や難解な解釈の連鎖ではなかった。彼の言葉そのものが権威を持ち、まるで深い泉から滾々と湧き出る水のように、聞く者の心の奥底に浸み込んでいった。

すると突然、叫び声が起こった。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。お前がどれだか知っている。神の聖者だ!」

叫んだのは、会堂にいた汚れた霊に取りつかれた男であった。彼の目は狂乱し、よだれが口元にたれていた。人々は後ずさりした。イエスはその男をじっと見つめ、叱った。「黙れ。この人から出て行け」

汚れた霊は男を引き攣らせ、悲鳴のような叫びをあげると、彼から出て行った。男は崩れるように床に座り込み、肩を震わせた。やがて顔を上げたその目は、以前の濁りが消え、驚くほど澄んでいた。会堂は水を打ったような静寂に包まれた。人々は囁き合った。「これはいったいどういうことだ。権威ある新しい教えだ。彼は汚れた霊に命じると、彼らさえ従うではないか」

噂はたちまちガリラヤ地方全体に広まった。会堂を出ると、イエスはシモンとアンデレの家に行った。シモンの姑が熱にうなされて寝込んでいると聞いたからだ。家は質素で、窓辺に植木鉢が一つ置いてあるだけだった。彼女は敷物の上で苦しそうに息をしていた。イエスは近寄り、そっと手を取った。熱が引くのを、弟子たちは目で見て感じた。やがて姑は起き上がり、何もなかったように彼らのために食事の支度を始めた。夕暮れになり、日が沈むと、人々が病人や悪霊に取りつかれた者を大勢連れてやって来た。町中の人が戸口に集まった。イエスは多くの病人をいやし、多くの悪霊を追い出された。悪霊たちは「あなたは神の子だ」と叫んだが、イエスは彼らが自分を現わすことをお許しにならなかった。

翌朝、暗いうちにイエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンたちは彼を捜し回り、ついに見つけ出した。「先生。みんなが先生を捜しています」 イエスは遠くの村々を眺めながら言われた。「ほかのところ、近くの町にも行こう。わたしは、ただそのために出て来たのだから」

そして、彼はガリラヤ全土を巡り、会堂では教え、悪霊を追い出された。しかし、彼の歩みはどこか急ぎ足のようにも見えた。まるで、もっと大きな時計の針が刻む音を、彼一人だけが聞いているかのようであった。ヨルダン川で受けたあの声と鳩の記憶。荒れ野での四十日。すべては、いまこの歩みへと繋がっている。神の国は、彼の足跡一つ一つから、この地上に滲み出し始めていた。

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